北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 | 甲 武 相 山 の 旅に書き込んだスワンのこれまでのコメント一覧その1

Preface

これまで、私は北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 | 甲 武 相 山 の 旅という遭難事故の考察サイトに数多くの書き込みをしてきました。
ここで書き込んだ私自身のコメントをテーマ別に整理して再構成することにいたしました。

その理由は、これまで上記サイトにコメントしてきましたが、管理人さんとあまりにも登山に対する考え方が違うことに気がつき、かえって読者を混乱させてしまうことに思い至ったからです。
8月3日ごろから、この管理人さんが突然、スワンは多田ガイドの肩を持ちすぎだとの意見を繰り返し述べ始めました。これは今思えば、管理人さんにとって一種のバックラッシュだったのでしょう。私はわけがわからず驚いてしまい、そこで初めて彼の過去の記事を検索しましたところ、根本的なところで私とは考え方の違いがあったようで、突然の翻意にも合点がいきました。今は軽はずみに他人のサイトを汚してしまったことを後悔し、反省しています。管理人さんにもご迷惑をかけました。


※以下、前後の文脈がわかりにくいところは最小限度に発言元を引用し、コメントのタイトルを新たにつけました。またポイントを強調するためいくつかボールド表示に変更しました。

コメントリスト

登山計画(プランニング)に関するコメント - + C amp 4 +
ルート評価についてのコメント - + C amp 4 +
天気判断・進め方に関するコメント - + C amp 4 +
パーティ評価に関するコメント - + C amp 4 +
ツアー会社の責任についてのコメント - + C amp 4 +
携帯電話の通話エリアに関するコメント - + C amp 4 +
7月16日にトムラウシを目指していた他のパーティの動向についてのコメント - + C amp 4 +
生還者戸田新介さんとの一問一答 - + C amp 4 +
生還者戸田新介さんの回答に対するコメント(7月31日〜8月3日) - + C amp 4 +
Sub eightの管理人との関係が突然悪化(8月3日ごろ) - + C amp 4 +

登山計画(プランニング)に関するコメント

登山計画作成とは行程表と装備表の二枚のことではない

silvaplauna様

何度もコメント欄を汚して申し訳ございません。

登山のリスクマネジメントはおよそ3つの構成要素から成り立っています。
ひとつはルート評価、第二に天気・進め方の戦略、第三にパーティ評価です。

ルート評価について。ルート上に障害物があればどうすればいいか。これは天候や霧などの視界、積雪も含めての評価です。このシミュレーションは距離や時間読みも含めて事前の登山計画で十分作戦を練ることができます。リーダーは現場で臨機応変に考えるのではなく、事前に頭に叩き込んだ答えを現場で当てはめればよいのです。
たとえば増水した川を渡渉するルートを想像してみましょう。正解はひとつしかないのです。渡れる水量を事前に決めておくことです。いけるところまで進み、だめなら戻ろうという現場の判断はもっとも忌避すべきことです。なぜなら、いけるところまで進むということは流されるところまで進むということだからです。

第二に、天気判断・進め方・停滞日の設定について。
実際にパーティがどのような天候であればぎりぎり行動できるか、についても事前に検討することが可能です。というより、このような判断を現場で臨機応変に、あるいは直感的に判断するべきではありません。行動可能な視界、風、気温についてはある程度定量的な基準を設けて、割り切って登山計画に盛り込んでしまうのがベターです。たとえば「フードで顔を押さえるような強風と雨の行動はしない」などです。なぜなら、天気の判断などというそもそも人知を超えた判断は、予防原則にのっとって安全側にたっておくべきからです。現場で余計なことを考えるべきではありませんし、現場の人間がどういう戦略をもっているかについては第三者に対しても登山計画などで共有すべきことです。山の中で判断すべきことは少なければ少ないほど安全なのです。

第三にパーティの評価
現場でリーダースタッフが思考を集中すべきはここです。
計画上のルートファインディングも天気判断もすべて現場のリーダーの判断になるわけですから、計画が絵に描いたもちにならないためには、これらを判断できる能力がリーダーに求められる要求水準となります。
また刻々と変化するパーティの状況(体力の消耗や装備など)をリーダーは常に把握する必要があります。これは現場の判断にならざるを得ません。

体力がわからないなどパーティの評価に不確定要素が多い場合は、行動できる天気基準・進め方・停滞日の持ち方に余裕を持たせる、というのが基本的な登山のリスク管理の哲学です。逆に言えば、攻撃的な登山とは、天気読みをある程度はずしたとしても行動できるパーティ評価をするということです。

ですから、現場での天気判断が難しかったとかいうのは、実はマヌケな話であり、それ以前に、パーティ評価についての計画上の不備があるわけです。
それでも、パーティに予期しない異常行動が発生するケースもありえます。
冬山ではよくあることですが、いままで元気に歩いていたメンバーが突然電池の切れたロボットのようになる、など。これが最終判断地を超えた地点で発生すれば取り返しのつかない事態に発展します。ここではじめてリーダーの真の登山センス・才覚が試されるわけですが、通常はそんな属人的な思考はしません。組織として行動する以上は、リーダーの個人的な才能に頼るべきではないからです。組織登山に冒険はありえません。
本来、このような登山計画は企画会社で共有されるべきでした。ガイドをアウトソースするリスクのおぞましさを今回思い知らされた気がします。

なぜこのようなことをぐだぐだと書き汚しているかといいますと、こうしたロジックこそ、ガイドの一人である多田くんのかつての出身母体の山岳クラブが共有していたリスク管理の手法だったはずだからです。

私がこの事故のニュースの第一報を聞いて愕然としたのは、いったいなぜ彼らはこんな判断をしたのだろうか、ということでした。とくに多田くん。私はそれをなにより、多田くんに問いたいのです。できれば、死人に口なしで、吉川さんにすべての責任をなすりつけたい悪魔の誘惑が私のなかですらあります。つまり多田くんは主体的に判断できる立場にいなかったのではないかと思いたいです。しかし現実はそうではなさそうです。多田くんの口から真実が語られるのを今は待つのみです。
しかし、正直なところ、8名の命を失ってしまった今、彼の胸中を思うと本当にいたたまれなくなり、真相究明もさることながら、彼がはやまったことを考えたりしないかとても心配でたまりません。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/21/tomuraushi/#comment-281より

現場での天気判断は過信しない

>つまり、天気予報で天気が回復するとされていても、一般のハイカーならともかくプロのガイドとしてはまず疑ってかかるべきであった。その意味で、慎重性に欠けたといえると考える。

これについては、僕は「天気予測なんて当たらない。当たらない時の行動計画の方が重要」と考えています。

とのBacchus auf Daikanbergさんの意見を受けてのコメント

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Bacchus auf Daikanberg様

>「天気予測なんて当たらない。当たらない時の行動計画の方が重要」

全くその通りだと思います。silvaplaunaさんももちろん同様の趣旨で、天気判断の難しさについて考察されていますね。私なりの言い方をすれば、天気をずばりと当てるというのは、人知を超えた判断です。これについては、ほぼすべての方が同じ意見だと思います。
では、上記のような天気概況のときにどうするか、というと判断のロジックが分かれてきます。

私自身のリーダーとしての考え方を参考までにコメントさせてください。

ひとつは、あらかじめ登山計画のなかで、パーティの行動能力から、行動しても安全な天気基準を割り切ってしまう方法です。たとえば、トムラウシ越えをする天気基準は、前トム平を下るまでの6時間、小雨、ふらつなない程度の風なら行動可能などと具体的に決めてしまうわけです。いったん決めてしまえば、たとえ当日の朝の概況が好天方向だとしても、基準を満たさず、エスケープか停滞などの判断をせざるを得ません。またもちろんエスケープルートの天気基準も決めておく必要があります。

重要なことは、この基準、判断方法をガイドが決めるのではなく、企画会社が企画書のなかでマニュアル化することです。いわば、企画書は憲法みたいなもので、臨機応変の判断を許さない硬直性がありますが、これが安全側を志向する硬直性であれば、むしろガイドは、山の中で考えるべきことが少なくなり、登頂のプレッシャーも弱まり、精神的な荷は軽くなるはずです。ルート評価と天気基準については机上で考えつくしておく必要があります。

通常、山岳会等の計画検討で行われるのは、こうした行動指針の確認です。

このように考えると、計画の中で安全をある程度は担保できそうにも思えますが、ところが、リーダー(ガイド)は登山中、非常に重要な任務を負っています。

それは、刻々と変化するパーティの状況、能力、装備の確認、そして評価し、それを原計画へのフィードバックです。山のなかでのリーダーの仕事の中心はパーティ評価と管理といっても過言ではありません。もし、パーティの行動能力が計画時に想定していたレベルと差が生じてきたときは、リーダーが臨機応変に考えざるを得ません。この頭脳作業に神経を集中すべきであるがゆえに、ルート評価、転機基準などの計画を事前に綿密に立てる必要があるのです。

人間は不完全です。どんなに綿密な計画をたてようとも、現実が裏切ることはよくあることです。そこで初めてガイドの真価がとわれるわけですね。

まとめますと、まず企画段階で十分なプランニングをする。
現場では、常にパーティの状況を把握し、評価を加えてオーガナイズする、これがリーディングであり、ガイディングの基本といえるでしょう。
プランナーとオーガナイザーが別々の主体であることは、デメリットもありますが、むしろメリットも多いです。すべてのガバナンス、マネジメントに共通するテーマですが、議論が拡散するのでとりあえずこの辺で。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/30/professional/#comment-327より

低体温症リスクを登山計画に盛り込むのは実効性があるか

あともうひとつ、低体温症発生回避についてコメントさせてください。

私の経験上、低体温症のリスクを客観化して、それを避けるために停滞あるいはエスケープするという判断基準を持っている組織はごく少ないのではと思います。つまり、どのような条件が組み合わさると低体温症になるか、という判断はきわめて難しいと思います。しかし今回の遭難を教訓に今後研究を深める必要がある分野だと思います。

ただし、実践的には、通常の組織登山の計画では、そういう難しい判断を現場でするよりも、一定の天候条件を下回った場合は何々する、という具合に、もっと広い範囲で網をかけてしまうほうが計画作成上は合理的だと私は考えています。天候の基準であればパーティ内部でコンセンサスを得やすく、議論する時間も最小限ですみます。現場での判断基準はできるかぎりシンプルにしてリーダーの思考の負担を減らすのが安全登山のキモだと思います。

低体温症といえば、かつて厳冬期の十勝で、奇しくも美瑛岳を越えたあたりで晴れていたものの強風下、メンバーの一人が近い症状になったことがありました。ザックにつけた気温計は−23度をさしていました。
これは今回の十勝の件はほとんど報道されていませんので、ここでいうべきことではないかもしれませんが、重荷を背負っていたこと、行動開始して2時間以上は経過していた、という点で、共通点があります。さらに防寒具に不備もありませんでした。しかし、事例としては、朝、雪洞や小屋を出た直後になるというパターンが多く散見され、いずれも比較的高所で急激な温度の変化を経験するときに発症しています。いろいろな事故例をみると、経験的には、しばらく行動して体が暖まる前に冷たい強風などにさらされると低体温になる可能性があるというカンが働きますので警戒していますが、しかし、ほぼ同一の気象条件下で、最初は元気に歩いていたが、しばらく行動しているうちにだんだん動かなくなる、みたいなケースというのは、判断が難しいものがあります。

ですから、低体温症回避という判断基準が登山計画において実践的であるかどうかは、私にはよくわからないところがあります。つまり、具体的にどういう条件になれば、停滞なりエスケープの判断をするか、これはかなり頭を使うのではないでしょうか。

参考になれば幸いです。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/26/escape/#comment-293より

今回のトムラウシの事例を極めて大雑把に法則化すると・・

1 行動開始後 6時間で 30パーセントの者が発症し
2 行動開始後 10時間では 60パーセントのものが発症する
3 行動開始後 18時間以降に自力下山出来たものは、30パーセント以下であり。自力下山できないものは、瀕死の状態で救助される・・。

前提条件として、縦走三日目、中高年登山者、体感気温マイナス5度程度の暴風雨下の行動、・・となります。

低体温症の問題は、確率の問題として捉えるのが、よろしいようです。

とのsilvaplaunaさんの見解をうけての回答

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silvaplauna様

リスクを定量化するとしたら、おっしゃるような分析になろうかと思います。
もうひとつ重要な前提条件として、レインウエア等の装備は追加すべきでしょうね。
今回生死を分けたのは、レインウエアの質だともいわれております(ただし吉川さんはゴアテックスなどの素材を着用していました)。

行動指針としては、悪天候での長時間行動を避ける、につきてきますが、リーダーはその理由付けとして、silvaplaunaさんが分析されているような基準を参照するのがよいと思われます。

発症者が出た場合の対処方針については、ボトルなどを使用した湯たんぽ作戦など装備を含めた具体的な処方を頭に入れておく必要がありますね。今回の場合は、こうした対処がどうだったか、今後の事実解明を待つばかりです。

リーダーの発症については、美瑛の場合でもガイドが発症しておりますし、これはこれで、リーダーの判断能力の喪失が更なる悲劇を招きかねないことを考えると、実は過去の類似事例を整理する必要がありそうです。
古い話では、79年3月の知床遭難という、吹き溜まりのテントを救出中に、リーダースタッフが疲労凍死した事例があります。個人的には、この点に関心が強いです。

私のコメントはあまり整理されておらずブレインストーミング的なものですので、余計に混乱させてしまったとしたら、ごめんなさい。また、ひとつのアイデアとご理解ください。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/26/escape/#comment-296より

ルート評価についてのコメント

生還者数名がコマドリ沢〜登山口まで8時間かかっている理由

もっとも早くに下山できた前田和子さんでさえ、コマドリ沢分岐付近で遭難の第一報を発してから、短縮登山口まで8時間もかかっていますが、これほどまでに時間がかかった最大の要因は何だと考えられますか?体力の消耗のせいでしょうか。それとも雨で足場が悪かったせいでしょうか。

7月24日付のOPTさんのコメントをうけての回答

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OTT様

想像にすぎませんが、さしあたってルートの問題と夜間の行動の二つが疲労に加えて寄与しているものと考えられます。

コマドリ沢より新道に入ると、急な登りが一時間ほどつづきます。この道は、かつて沢沿いの旧道が相次ぐ増水遭難事故のため閉鎖になり、あらたに開拓されたもので、開拓当初は根曲がり竹の斜面を無理やり切り開いたような、ルートとしてはできばえが非常に悪いものという印象があります。
今はどうかわかりませんが、開拓当初は、下手に転倒すると根曲がりの鋭利な切り口で服や体を突き刺す危険があると注意がなされていました。
そのうえ、カムイ天上付近で旧道と合流するのですが、このあたりは昔から雨が降ると、ベトナム戦争のようなぬかるみになることで悪名高い場所でした。登山道はV字状の深い溝になり、ときには急な下り坂をじょぼじょぼと水が流れている有様です。藪をつかんで脇をへつっていく上半身の体力がときには必要です。
このルートを命からがら降りてきた高齢者がヘッドライトを頼りに歩くとすれば、何度となく転倒することは容易に想像ができるわけで、転倒するたびに、消耗し、体を休め、足の歩みは逡巡し慎重にならざるをえず、生還して発見されたときの格好が泥だらけであったのは、このときの格闘を物語っていると思われます。

そのほか足の怪我などの要因もあったかもわかりませんね。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/24/matumoto-hitoshi/#comment-280より

エスケープルートの選択肢と予備日の可能性について

7月24日付
はじめまして。
精密な事実の整理と考察、大変参考になります。
私もこの件に関して、関係者の話も聞く機会があったため、ある程度の分析や所見はもっています。ただ、それだけに、あまりに身近すぎて、書くにかけず、主観が邪魔して何一つかけません。とくに三人のリーダーシップはどういうものだったのか。生還した多田君や松本さんには真実を語ってほしいと願っています。

かつては、このルートの縦走はパーティ評価の判断よりも山越えのルート判断もまた難しいと考えられていました
なぜなら、大雨が降ると、短時間のうちにコマドリ沢に集水され、それより先の渡渉が増水により困難になる可能性があるからです。実際、かつてリーダークラスの岳人の間で第二の難所とされていたのは、森林限界を下がったコマドリ沢の増水でした。実際、かつては増水した沢に飲まれて死亡する事故が相次いでおりました。
ですから、ヒサゴ沼の小屋ないしカウン分岐でのっこすか、引き返すか、エスケープするかの最終判断をする際、雨の状況次第では沼の原登山口(あるいは天人峡温泉エスケープする選択肢がかなり現実的なものとしてリーダーの頭の中にはあったものです。しかも最終判断地での待ち時間は長い行程を考えれば長くて 30分程度。いけるところまでいってみようみたいな、場当たり的な判断は許されず、即断しないといけませんでした。
いいかえれば、世間でツアー登山の落とし穴みたいにいわれているような、日程固定のプレッシャーによる判断のゆがみよりも、増水事故の可能性のほうがリーダーの判断を拘束しており、パーティ評価で頭を悩ます以前に、かえって増水を根拠にしてにエスケープの論理をたてやすかった記憶があります。

しかし、今では新道ができたためか、ルートを理由にヒサゴ沼でエスケープする判断をしにくくなっているのかもしれませんね。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-278より

silvaplaunaさんの考察をうけて、エスケープルート評価・時間等についての回答

silvaplauna様

本来ならこちらからきちんとした情報提供すべきところ、大変失礼しております。

記憶ですが、ツアーの時間読みで、だいたい
小屋→カウン岳手前分岐(1・5h)
カウン岳手前分岐→五色岳(1・5h)
五色岳→五色の水場(2h)
五色の水場→沼の原入り口(1・5h)
沼の原入り口→クッチャンベツ登山口(2h)
と記憶しております。
しかし、風雨を加味すると、弱い人がいればプラス3時間くらいみるべきでしょう。トータル11・5時間です。決して楽とはいえないエスケープです。

天人峡の時間読みはだいたいsilvaplauna さんのご考察のとおりです。

ただ経験的に、天人峡とどちらが負担が少ないかといえば、平坦な道の多い沼の原経由です。本件であれば風を背に歩けるのでよりベターでしょう。

しかし、通常、コマドリ沢旧道コースの危険をさけてエスケープするパーティのほとんどは天人峡に下る選択をしていたと思います。なぜなら、それだけの雨量になると沼の原コースは木道がついているとはいえ、水位に不安を覚えるはずです。実際には、そんなには増えないのですが。また、天人峡には公共の交通機関があり温泉もあるからです。添乗員やガイドにはホテル代バス代と頭の痛い問題が待ち構えていますが、温泉で疲れを取るのもやはり重要です。
一方、クッチャンベツ登山口はゲートのある林道の終点で国道に出るまで8km程度は歩かなければならなりません。

しかし、当日、かりにヒサゴのコルで最終判断をしたとして、カウン沢方面からふらつくような爆風が吹いていれば、天人峡に降りるよりも、風下側のクッチャンベツルートを薦めたいです。ツアーであれば、一人スタッフを沼の原あたりで先行させてバスを呼びに走るでしょうね。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/26/escape/#comment-293より

北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 今回の事故について戸田新介様のご意見 と 幾つかのご回答 | 甲 武 相 山 の 旅(7/31)に対するコメント

他人のブログのコメントから引っ張ってきてお手数をおかけしました。
noho様からのご質問への回答です。

swanslab様
私はあなたのお陰でこの事故の事実少なからず近づけたと感謝しています。下記の件をお尋ねするのはあなたが適当ではないかと思います。ご教示いただければ幸いです。

⑤白雲避難小屋からのエスケープ(多分銀泉台)はリスクがあるのか?シェルパは最初の故障者の介添えには使えないのか?

まず共有している事実の確認からはじめます。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/31/mr-toda-text/
の質問⑦に対する、戸田さんの回答によれば、ツアー初日の旭岳〜白雲避難小屋の行程において、嘔吐を催すなどの明らかな体調不良者が目撃されています。また戸田さんはその日、二度目撃したといいます。またその客の対応のため、ガイドが全員集まったのも目撃していますので、少なくとも白雲避難小屋到着の時点で、ガイド三名には体調不良者が一名いることの認識がありました。これが現場でどのような判断がなされたのか不明です。

さて、もしかりに、私がガイドであったとして、緊急下山の決断をする場合には、銀泉台経由か高原温泉を選ぶかはその日の風向きで考えるでしょう。銀泉台コースの場合、ルート上の問題としては、赤岳〜コマクサ平の風衝地帯で体力を消耗するリスクはありそうです。少なくとも3時間は吹きさらしです。また、標準的なアミューズツアーのパーティ能力を想定すると、この時期であればコマクサ平の下部の雪田のトラバースも短いながら侮れません。雪田に突入すると、登山路の出口がわかりにくいはずです。私はピストンの場合でも、何度かカッティングしたりステップを切ったりして通過させています。

一方、高原温泉下山を選択した場合、難所は下部1500m付近の大きな雪田帯です。これを初見で下るのはガイドの地図読みの能力を要するかもしれません。しかし、当世、ツアコンやガイドには磁石のきり方もしらない人がいますので、読図に慣れていない人には強くは勧められません。またルートの利用者も少なく、雪田一帯は冗談じゃなく本当に熊が出没する可能性が高いので雪渓に出る前に高らかに鈴を鳴らしたり歌を歌ったりしながら下りるべきでしょう。ただルート自体はやさしいし、最短といえます。


次のご質問ですが、コミュニケーション能力から考えて、ネパール人のテンバさん一人で故障者の介添え下山するのはお勧めできません。この場合、松本さんがベターでしょう。銀泉台下山後、比較的早い午前中に故障者を離団させることができるならば、速やかに登りかえしてパーティと合流するか、高原温泉の場合はクッチャンベツ登山口にタクシーで移動し、沼の原を駆け上がるというのもひとつの案でしょう。しかし、この場合も、この時期はヒサゴ沼手前の小屋への短縮ルート上の雪渓もいいかげん長いので、道に迷うかもしれませんね。地図の読めるガイドであれば問題ありません。ガイドの能力と天気によりますので、なんともいえません。

もしかりに離団というのではなく、東大雪荘に先回りするのであれば、松本さんは故障者と同行するべきでしょうね。その場合、本隊の三日目は脆弱な体制になりますので、動ける天気基準を一段引き下げる作戦にでて、7月16日の天候では体調不良者がいない場合でも、頂上をあきらめて沼の原登山口に下山するのがよいと私は考えます。

あやふやな回答で申し訳ありません。今後の参考になさっていただければと存じます。

天気判断・進め方に関するコメント

予備日の可能性は?

・別ルートからのアミューズパーティが当日ヒサゴ小屋に宿泊することになっていたため、遭難パーティは小屋での停滞判断をあえてしなかったのではないかとの趣旨の五郎右衛門さんの意見を受けての回答

何度もすみません。
遠まわしにいろいろ書かせていただいておりますので、意図を汲んでいただけると幸いです。

五郎右衛門様

小屋に残留した第四のガイドの主目的は後続パーティの翌日の行程のサポートでしょう。また、後続パーティがくることになっていたから小屋での停滞判断がなされなかったとの推論は、上述した経験を踏まえて、違うのでは?と考えております。通常、予備日もないのに停滞の判断はありえません
すべての新聞報道による分析は「なぜ停滞しなかったのか」みたいなよくわからない説教になっており、違和感を感じています。予備日がないならば、通常はエスケープです。そうすると、その状況でより安全な退路を考えるのがガイドの役割です。ホテルバスの手配という面では天人峡ですが、若干森林限界での行動時間が長く距離もあります。風よけになる樹林帯にわりと短時間で入れる最短ルートという面では沼の原登山口がベストです。また、後続同社パーティは沼の原経由でヒサゴ沼に入ることになっているため、もし仮にエスケープの判断がなされるとすれば五色手前あたりで同社パーティ同士がすれ違う可能性のある、沼の原経由で下山することになったでしょう。

小屋の場所取りの是非についてはさしあたり別問題として議論する必要がありそうです。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-282より

予備日がない前提では、まずエスケープの判断が先行する

一般(私のような素人)の場合登山では「停滞するしない」は個々が任意にきめています。が、「ツアーのばあい停滞はありえない」ということですね。現状認識としてそうかもしれませんが、しかし、この現状が望ましいか、望ましくないか、という深刻な問題があるわけです。それでも「停滞はありえない」というなら、そんなツアーはやるべきではないと思いますヨ。自然相手にそんな杓子定規は通用しないでしょうから。そう考えていくと、さいごは企画側の理念を問わざる得ないとおもえます。

との意見をうけ、以下の回答

    •  

五郎右衛門様

「ツアーの場合は停滞はありえない」のではなく、このツアーにおいて予備日を設けていないので、停滞するという選択肢はそもそも計画上存在しないということです。その日のうちに悪天でも行動可能な退路(この場合沼の原登山口経由)があるのだから停滞などしないでいいのです。新聞報道で欠落しているのは、エスケープルートの分析なのですよ。

予備日を設けていないこと自体がおかしいという話と
予備日のない計画でどう行動すべきかはまた別の話です。
予備日がない、あるいは予備日を使い果たした状況下で、検討すべきはエスケープなのです。

事実、かつて新道がなかったころはコマドリ沢の増水が心配で、一日の停滞では足りないこともあったのです。停滞日を使い果たした場合は天人峡におりるか、クッチャンベツに下山していたはずです。

杓子定規とかそういう話ではなくて、新聞報道には他の採りうる選択肢について言及が乏しいので、分析が不十分になっているということです。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-289より

机上でも迷う問題は山の中で適切な判断ができない

「予備日を設けていないこと自体がおかしいという話と予備日のない計画でどう行動すべきかはまた別の話です」ということですが。

山で進退窮ったときには、なにかしらの安全策をとって窮状をしのぎますが、そのことによる遅延はいたしかたありません。当然ツアーでもそうあるべきでしょう。予備日の有無にかかわらず、状況に応じて計画を変更して無事に下山できればそれでよいのです。今回のトムラウシの遭難のばあい、ツアーのパーティが16日にヒサゴ小屋にとどまっていれば、死者8人も出さずに済んだのでは。

以上の五郎右衛門さんの意見をうけての回答

  • -

五郎右衛門様

>予備日の有無にかかわらず、状況に応じて計画を変更して無事に下山できればそれでよいのです。

登山というのは計画したとおりに行動するのが肝要です。想定しうるリスク・危険は机上で考えつくしたうえで、どういうときにどう行動すると計画のなかで決めておくべきです。「状況に応じて現場で判断する」というのは、無計画というのです。良識ある山岳会なら、そのような考え方のリーダーは育成しません。そういうことができる限りないように、登山計画というのを綿密に組み立てる必要があるのです。現場でいちいち考えなくてもいいように、里で考えうることは里でシミュレーションしておく、これが登山計画作成の鉄則です。

予備食料もないのに停滞したとして、翌日も天気が好転しなかったらどうするのです?またもう一泊して、あくまで前進するのですか?本州の社会人が穂高などの冬山でたまにやらかすように停滞して携帯電話で小屋から救助を呼ぶのですか?違いますよね。

当日の朝の判断としては、より安全なルートで速やかに下山する計画であるべきなのです。
問題は退路を考慮した計画だったのかどうかなんですよね。
もちろん、当日の天気が五色方面に進むのも厳しいような天候であれば停滞せざるを得ません

また、トムラウシ山を乗っこせると判断して小屋を出たあとに、当事者の主観としては予想外に悪天につかまりますが、そこで判断地を設けたかどうか。
その時点での判断は場所・時間によっては小屋に引き返すという選択肢はありえますが、これは計画外の判断というべきです。ガイドの真の腕は、この計画で予期していない事態が発生したときに発揮されるものですが、これこそ「計画変更」の事態です。このときの巧拙をプロでもない人間がそれほど強く責めることができましょうか。
計画が未熟であったことと、計画外の緊急事態での対処がどうであったかは一応わけて考察する必要があります。

エスケープルート、が成立するかどうかは、私にはわかりません。
とのことですが、報道にありませんのでご存知なくて当然です。しかし20年近く北海道の山を登ってますので、私にはわかります。私の経験から言わせてもらいますと、針葉樹の限界は天人峡方面で1250〜1300m、沼の原方面で1400mくらいです。また沼の原方面は全体として登山路もナナカマドやハイマツなどが背丈ほどに茂るトンネル状で風雨の中歩く場合でも消耗が少ないですね。また神遊びの庭付近も緩く尾根を回りこんでいるため、少なくとも当日の風向き(天人峡方面からの吹き上げ)を考慮すれば風当たりも少ないです。
所詮、匿名でためらいがちに話していることですので、半信半疑にとらえてもらってもかまいませんが、一応、サイド情報として覚えておいていただければと思います。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-292より

五郎右衛門様には少し言い過ぎてしまい大変反省しております。

silvaplauna様
今回の事故は、まさに多田くんがガイドとして成長してゆく途上の悲しい出来事でした。彼には当然法的な非難は向けられるでしょうけれど、同時に一日も早くこの敗北を胸に立ち直ってほしいと思っています。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-298より

パーティ評価に関するコメント

リーダーは現場でパーティの評価のアップデートに努めたか、弱い人の言葉に耳を傾けたか

今回の事故は,いろいろな要因があると思いますが,防止には,「先導者である山のプロのガイドがそうでない人への理解を深めることが必要である」と思います。・・・中略・・・
「登山のプロであるガイドだけで出された結論=悪天候でも出発する」は,<登山家だけの間>では、ある意味「当然取るべき結論」であると言えると思います。

ただし、あくまでも<登山家だけに通用する結論>であり,いろんな力量の混ざったその他大勢のグループには通用しなかったということだと思います。

だからこそ,わたしは,「登山のプロが,登山ではこれが常識だ」と主張して,素人とのギャップを埋めない限り,事故はなくならないと思います。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-318より

とのローズさんの意見を受けてのコメント

  • -

ローズさま

ご趣旨ごもっともです。実際ローズさんと全く同じお言葉をツアーの参加者の人たちから聞くことが多いです。私の山好きの叔母さんも同じことをいっておりました。
五郎右衛門さんとのやり取りのなかで、私は、エスケープがあるのだから、停滞など考える必要ないかのような発言をしておりますが、明らかに言いすぎです。これはやはりリアルタイムのパーティ評価を踏まえた天気基準であるべきですね。

もしリーダーがパーティの評価を怠って、パーティの行動能力が計画時と変わらないと信じて、計画通りに動いてしまったら、それはリーダーの過失といえるでしょう。ただ、私のルート・天気イメージでは、エスケープもできないほどパーティの能力が劣化している事態というのはただことではないです。本当にそんな事態であったかどうかは疑問が残る、というのが正直な感想ではあります。

しかし、同時に事前の計画をよく練るというのも重要です。よくできた登山計画というのは、パーティの行動変容も織り込んで計画を作るものです。たとえば行動時間が長くなれば、弱者の疲労も織り込んで、天気基準をあらかじめ安全側に設定したりするものです。そういう意味で、計画時点で安全を担保しうる領域というのは、かなり広いのです。

ところで、具体的に、遭難パーティの抱いていた計画とはなんだったか、というと、これは恐らく、3名のガイドの頭のなかにしかなかったというほかありません。なぜなら、私も経験上、いろんなツアーをみておりますが、企画会社は登山計画を検討する能力が極めて低いのです。ようするに、極端な話、行程表ぺら一枚を計画だと勘違いしているふしがあります。少なくともアウトソーシングされたガイドは、渡された行程表だけから、本来あるべき計画を推測し、再構築しないといけない不幸な状況にあるように私は思います。

本来、プランニングなどというのは、計画実施前にとっくに共有されていなければならないものですが、とりわけ今回の遭難パーティの場合、ことによると、ガイド3名自体も初顔合わせであり、前日のホテルで計画の打合せをした程度かもしれません。これはアミューズだけを責めている問題ではなく、他のほとんどのツアー会社も同罪です。行程表だけを渡して、あとはガイドの好きにやっていいというのであれば、それは、ガイドが登山計画をするも同然です。

企画会社が計画の目録だけをつくり、ブレイクダウンをガイド任せにするのは、それはそれでリスク要因です。
なぜなら、第一に、プランニングまでするとなればそれだけで負担であること、第二に、ガイドがその場でプランニングし、即実行する、とすれば独裁者と同じ暴走の危険をはらむからです。

これは完全に別項で論じるべきことになりますが、私は、吉川さんと多田くん、そして松本さんの三人がどういう権力関係にあったのかをもう少し具体的に知りたいです。

生還された戸田さんの証言に「リーダーシップをとれる人間がいなかった」とあります。これは、多田くんを知る私にとって、めちゃくちゃに突き刺さる言葉だったのです。これについてはまた改めて。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-329より

北沼到着時点でガイド三名はリーダーシップをとれる状態にあったのか

以下、ローズさんより遭難時のリーダーシップがなぜ適切に機能しなかったのかについてのご意見をうけました。

swanslabさま
お返事ありがとうございます。
当事者にとても近い立場で精神的にも辛いところで,的確な情報を寄せてくださって,本当にありがたいと思います。

わたしは,swanslabさんのご意見は基本的にもっともだと思います。登山家グループでは、当然出される結論と行動であることは、同じ行程をたどって遭難しなかった別のグループの存在で,証明されていると思います。

ただし,今回は,先にあげた朝日新聞の報道*1が本当なら,「出発前から健康と体力の不安を訴えていた複数の客」がいたようですので,エスケープルートを辿っていたら全員が何事もなく下山できたかは疑問に思います。

そして,「力量以上の山でもガイドがいるから大丈夫」というような前提なら,「エスケープもできないほどパーティの能力が劣化」もあり得ると思います。

テントの中で救出されて助かった女性は,「前日も一日雨に降られ濡れながら歩いた」とテレビで証言されていました。またその方は,同じインタビューで「自分は以前北海道の登山ツアーに参加して,その時も相当寒かったので,寒さ対策は万全できた」とも証言されています。

それが真実であるなら,装備の悪い方は、寒さ対策も不備で,前日も夜も濡れて過ごし,急激に,かつ相当に疲労されていたと思います。

ただし,全員だとは思いません。

比較的濡れなかった方もおられるでしょうし,避難小屋でも場所によって環境がずいぶん違うと思いますから,身体を休められた方もおられると思います。また,元々体力があって,そこまで疲労されなかった方もおられると思います。

ただし,これも全員ではなかった。ということなんだろうと思いますが、今後,ぜひ明らかになってほしいと思います。

せめて「出発前に,健康や体力が不安で,停滞を申し入れた人」だけでも,停滞できなかったかなと思います。

>生還された戸田さんの証言に「リーダーシップをとれる人間がいなかった」とあります。

わたしも,その点は疑問でした。そして、先の新聞報道でも,「山頂付近で停滞した時,ツアー客が救助要請をしたのに,ガイドが要請しなかった」とあります。

どうしてなんだろうと思っていましたが,これは、こちらのページでご紹介していただいた「低体温症」のページ

http://www5.ocn.ne.jp/~yoshi515/teitaion.html

を拝見すると,ガイドの方達は既に「軽度の低体温症」にかかっていた可能性があると思います。

そちらのページによると,

「軽症(35〜33度)  無関心状態、すぐ眠る。歩行よろめく。口ごもる話しぶり。ふるえ最大。(協力的にみえて協力的でない。まともそうに見えてまともでない。)」

つまり,まともそうに見えても,もうちゃんとした判断力がなかったのではと思うのです。

ガイドの方は,当然参加者より荷物も多く,自分よりツアー客の方を何かと優先していたと思います。つまり,同じ行程を取っていても,負荷は大きかったのではないかと思います。

ですから,一部のツアー客は自力下山できたのに対し,ガイドで自力下山できた方はおられなかったのではないかと思います。

救助にあたった自衛隊の証言は,「亡くなった方は全員薄着であった」とありますが,ガイドである吉川さんも薄着であったなら,それもどうしてだろうと思うのです。わたしは、誰かに自分の装備を貸したのではないかと思ってしまいます。

そして,(ガイドとしてはそういう発想はなかったと思いますが,)付き添いをやめてご自分だけでも避難小屋に戻れば,命は助かったのでは,とまで思ってしまいます。

吉川さんを良く知る方のコメントとして,「あの人は,一番危険なところに,最後まで残る人だから,誰かの身代わりで死んだんだろう。」という報道がされていました。

何度も遭難を防げたかもしれないタイミングで,遭難の方へ選択をした結果の事故であると思います。しかし,ひとたび遭難した後の判断として,「一緒に死ぬのがガイド(山のプロ)としての責任の取り方」ではなく「自分を含め一人でも死者を出さない。最悪自分だけでも生き残る」というのが,本当の責任の取り方だと思うのです。

今後,一人でも亡くなる方が減ってほしいと思い書きました。

こちらのページも,swanslabさんのご意見も,これから登山ツアーに参加しようとしている人にとっては,必要最低限の知識だと思います。

大変だと思いますが,これからもご指導していただければと思います。
ありがとうございました。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-333より

以上を受けたコメントは以下のとおり

  • -

ローズ様

ご教示いただきました朝日の記事および戸田さんよりのご回答をあわせて考えますと、ローズさんが分析されているように、二つのことが改めて浮かび上がってきます。

1.リーダースタッフは小屋出発時点で、体調の悪いお客さんの状況もふくめ、パーティの行動能力を過大評価していた疑いがある。
2.少なくとも北沼の時点で、すでにリーダースタッフは軽度の低体温症に罹患しており、正常な判断能力を欠いていた疑いがある。

「リーダーシップをとれる人間がいなかった」という戸田さんの証言はあまりにリアルな証言であり、忘れることができない言葉です。

1979年3月に北海道大学山岳部が知床山地で吹き溜まりのテントを救出中にリーダースタッフが疲労凍死した事故を思い起こします。この事故では救助を呼びに下山した下級生のみが生還しています。このときの教訓は適切なテント設営場所の選定とともに、「余裕がなくなってからでは判断が遅い。余裕がなくなる前になんとかしろ」というものです。
この教訓は、あらゆる危機管理でいえることで、例をかえると、アフリカやアジア地域ではマラリア罹患のリスクがありますが、以前、現地の保健担当に相談した際、「まず強力な解熱剤を飲んで判断能力を回復させることです。先にそれをしないと病院にいくという判断すらできなくなりますよ。」との答えががえってきたことがあります。

それから
>最悪自分だけでも生き残る」というのが,本当の責任の取り方

これは、1962年暮れに発生した北海道学芸大函館分校山岳部の大雪山系遭難事例を想起させられます。悪天候でテントが崩壊し、その後いろいろ努力するものの、最終的にはチリジリバラバラになって下山、メンバー10名死亡、リーダー1人が旭岳付近の森林帯から生還した事例です。
この事故については『北の山の栄光と悲劇』滝本幸夫著(絶版?)ならびに『凍れるいのち』川嶋康男 / 柏艪舎に詳しいです。後者はまだ読んでいません。

私自身だったらリーダーになんと語りかけるでしょう。10日前、8名の尊い命を失うという壮絶な体験をした多田くんに、私はかける言葉を完全に失っておりました。留守電にメッセージを残したものの、言葉にならずほとんど沈黙のメッセージとなってしまいました。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-334

上記のコメントを書いた後,戸田さんの証言を拝見しました。こちらも,壮絶で,ひとつひとつが重く,衝撃を受けました。大変な思いをされて生還されたばかりなのに,こうやって状況を話してくださることについては,本当に頭が下がります。

それでも,多田さんにまずかける言葉は,わたしだったら

「生きててよかった」
「よく無事に帰って来た」

ではないかと思います…。

とのローズさんのコメントをうけての回答

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ローズ様

戸田さんは非常に勇気のあるお方だと思います。
恐らくインターネットの片隅では、名前は出さずにぽつぽつと断片的にお書きになっている生存者の方もいらっしゃると思います。しかし公開され、セカンドレイプさながらに、根拠のない侮蔑や非難にさらされることを覚悟したうえで証言できるというのは、実際には大変なことだと思います。

戸田さんがどうやってサバイバルしてきたか、の生々しい証言は必ずやこれから登山をしようというすべての人の心に残るものだと思います。

多田くんにはこの事故を多くの命を失った悲しみから私たちへの教訓へとして昇華する責任があります。
いまは敗北感で打ちひしがれ、たまらなくつらく、苦しいときでしょう。しかしそんな敗北者にしかできない仕事もあります。そのことにいつか思い至って、歩き始めることを願っています。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-338より

*1:スワン注:複数客、出発前にガイドに「中止を」 大雪山系遭難 http://www.asahi.com/national/update/0719/TKY200907190369.html

ツアー会社の責任についてのコメント

もっとも私は単に計画というより、ツアー企画そのものの姿勢、理念に相当問題あったのではないか、つまり金儲けばかりが先行していたのではないか、と想像しています。おこるべくして起こったのかもしれません。このへんは身近にいたヒトがツアーの実態を明らかにしてくれることを望みます。http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-299より

との五郎右衛門さんの意見をうけての回答

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五郎右衛門様

会社の方針として、金儲けばかりが先行していたとの想像は的を射ていると思いますよ。

実際、同社の他のツアー計画では、私が10年前に知っているアミューズトラベルの計画ではありえなかったような、日程を1日短縮した驚くべき強行軍のプランが平然とまかり通るようになっていますね。そんな強行軍のツアーが最近登場したらしいと言う話はこの事故後に関係者の話ではじめて聞いたのですが、愕然としました。利益優先が見えみえで、吐き気がします。

いつだか、札幌事務所が立ち上がるころに、松下さん(当時専務だったと記憶していますが)安全には従前と同じように気を配るようにと忠告したことがありましたが、どうやら外道に落ちてしまったようです。

ただ、このテーマはまた、これはこれ。別途別の場所でとりあげてもよいのかなと思うんですね。
私としては、このサイトの趣旨に鑑みて、なるべく議論がぶれないように意見を述べさせていただいているところです。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-300より

携帯電話の通話エリアに関するコメント

トムラウシ周辺の携帯電話の通信環境について、一言コメントさせてください。

私も北海道を離れてだいぶたちますので、せいぜい5年ほど前の情報ですが、以下のような認識でした。

条件:ドコモムーバ使用

ヒサゴ沼〜北沼→圏外
トムラウシ山頂(ほんとの山頂部で)→天候によりアンテナが立つことが有
南沼〜前トム平→所によりまれにアンテナが立つこと有
前トム平〜カムイ天上手前まで→圏外
カムイ天上の下り→アンテナ3本確実

短縮登山口などの車両手配等の電話が可能になるのは、カムイ天上を下り始めたあたりであることが多かったのではないでしょうか。

もちろん、5年もたっており、今ではフォーマの通話エリアも拡大しているはずです。

しかし、五年前は、遭難場所周辺は圏外との認識でした。多田くんが北沼よりの斜面で、携帯の連絡を入れていること自体が驚きで、ずいぶん通信環境がよくなったのだなぁと驚いています。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/31/mr-toda-text/#comment-355より

Bacchus auf Daikanberg様
10年前は皆さん当たり前のように無線機を携帯していたように思うのですが、最近はどうも携帯電話に依存する人が多くなっているようですね。無線機に限らず、事故ツアーの共同装備の不備はこれからもっと証拠がでて明らかになれば、リストアップして再検証するのがよいと思いますが、、silvaplauna さん いかがでしょう?
http://subeight.wordpress.com/2009/07/31/mr-toda-text/#comment-363より

7月16日にトムラウシを目指していた他のパーティの動向についてのコメント

silvaplauna様

下記のNHK解説委員室ブログによれば、
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/23738.html

(1)なぜ出発したのか。

当日の朝、悪天候のなか、ガイドたちは予定より30分遅れて出発することを決断しました。この時点での天気予報は、「曇り、昼過ぎから晴れ」で、参加者は、ガイドが「午後からは晴れる」と説明したと話しています。しかし同じ日にトムラウシ山を目指し、ほかの避難小屋にいたパーティーのガイドは、同じ天気予報を聞いていましたが、天候の状況から登山を断念し、下山していました
との記述があります。小屋にいた他の人たちはどうしたのか気になっていましたが、やはり天人峡かクチャンベツにエスケープしていた模様ですね。

とりいそぎご一報まで。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/26/escape/#comment-306より

silvaplauna様

すみません、さきほどの記事、読み間違いがありました。「同じ日にトムラウシをめざし」「ほかの避難小屋」とありますので、はっきりとは断定できませんが、別パーティの判断地は忠別岳の避難小屋の可能性が高いですね。そうすると、五色岳〜沼の原経由〜クチャンベツになりましょうか。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/26/escape/#comment-307より

生還者戸田新介さんとの一問一答

戸田新介様
はじめまして。私は今回のガイドのひとりの多田くんの直接の先輩ではありませんが、彼のかつての所属クラブの登山を通じて、彼の人となり、登山に対する考え方など、ある程度しっている人間です。それだけに今回の事件は愕然とさせられました。戸田さんにおかれては、生還されてまだ日が浅く、胸中は察するにあまりあります。
ほんとうは山ほどお聞きしたいことがございますけれども、決して思い出したくないこともおありでしょう。私の質問はまとめさせていただきまして、いったんこのサイトのウェブマスターにEメールにてお預けしたいと思います。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-309より

・以下設問はスワン(カッコ内の文言はsilvaplaunaさんによる補足説明)、回答は戸田さん。

まず、ガイドの様子についてお聞きします。

1.登山全体を通して、計画、状況、判断の説明をする人は、三名のガイドのうち誰でしたか。

(ガイドの名前は吉川ガイド 多田ガイド 松本ガイドのうち誰がリーダー格でしたか?という意味です。独りの人が全部決めていたのか、それとも、役割分担があったのかを知りたいのです。

32歳ガイドがすべてを決めていたとおもいます。北海道がはじめてで、気候やコースについて何も知らない人になんの決定権がありましょう。38歳ガイドとは行きの飛行機で相席となり、彼が「夏休みの代わりとして会社があたえてくれた」といっているのをきいています。つまり責任の軽いもので、お手伝いをすればよいとかんがえていたようです。吉川ガイドのことは分からないが、「雨は気にしないで歩けばよい」といったことをいう人です。(じぶんへの発言)また携帯は持たないとウソをいう人です。最終日には「今日は皆さんを下に送り届けるのがしごとです。」といっていたといいます。

2.前日(15日)の天候をご教示ください。

(どのくらいの雨だったかとか、結構衣類が濡れてしまったとか・・、寒かったとか・・、避難小屋についても乾かなかったとか、そういった情報です。)

前日は朝から終日雨でした。風速は5mぐらいです。山の雨ですからはじめはそれほどには気にならなかったのですが、そのうちからだの芯からぬれたようにかんじました。眼鏡が外側は雨粒がつき、内側は曇り苦労しました。ただ着衣は上は春夏ようのジャッケトとゴアのカッパで十分でした。下着まで全部ずぶぬれです。靴はズクズクで靴下は絞れるほどです。自分は全部着替えましたが着干しの人もいました。女客のことは分かりませんが雨具以外を干しているようではなかったとおもいます。シラフをはんぶんぬらしシラフカバーを中にして寝ました。シラフを濡らした人は他にいると思いますが、どうしたでしょう。着替える場所はありません。
2階は別のグループと個人がつかい一階は私たちが使いました。干す場所がなくてこまりました。なおこの日は一時間早く小屋につきました。けっこう急がされたという感じです。それが翌日の判断ミスにつながったと思います。雨の中休む気にはなれませんし、平たんのコースで翌日の参考にはならんと思いますがねえ。

3.最終判断をなしうるガイドはヒサゴ沼を出発するとき、理由を説明しましたか。そして、次にどこで天候の判断をすると説明していましたか。

(リーダー格のガイドさんは16日朝に避難小屋を出るときに、なぜ予定通りにトムラウシ温泉に向かうのか、メンバーに説明しましたか?天気が悪くなったらどうするとか、しばらくトムラウシのほうに進んで天気の様子を見るとか言っていましたか?ということです。)

自分はトイレに行ってて、その間に全部終わっていたようです。30分の延期はとなりに寝ていた木村さん(死亡)が教えてくれました。様子を見る、30分延期するというのです。妙だとおもいましたが、30分遅らせれば天気のピークをやり過ごせるとでも考えたのだとおもいます。それと30分以上は長い距離(予定タイムは10時間30分となていました)を考えると無理と思ったようです。だれかが中止を言い出したと報道にありますがそれは女客だとおもいます。だれが言い出したか知りたいのにいまだに分かりません、たぶん亡くなられたのだと思います。女客で生還した人なら分かるかもしれません。32歳ガイドが昼には天気が回復すると言って決行を決めたとの報道があります。途中での天気の判断なるものは彼(32歳)の頭にはなかったと思います。そのような話は誰からも聞いていません。途中で様子をみるという話もありません.そんなそぶりはありませんでした。りょうせんにでてからは前を見て歩くことだけ考えていました。

4.出発時にガイドはお客さんの装備(アイゼン・防寒具)のチェックをしましたか。ヒサゴ沼避難小屋を出る時点で重ね着の指示はありましたか。

(寒さ対策に中間着を着てくださいとか、フリースを着てくださいとかのアドバイスがなされましたか?という質問です。)

チェックはありません。ストックのゴムを抜くようにとの指示が32歳ガイドからありました。アイゼンはすぐに出せるようにというのは別のガイドの指示です。これは誰かが聞いたからでそうでなければ指示はなかったでしょう。重ね着の指示はありません、誰も聞かなっかたからだとおもいます。

5.事故当日(16日)、先頭を歩いたガイドさんは誰ですか。最後尾を歩いたガイドさんは誰ですか。

先頭は今回を通じて32歳ガイドがつとめました,正ガイドの務めだそうです。最後は添乗員たる吉川ガイドがつとめ、サブガイドの38歳ガイドは中間に位置すると決めていたようです。

6.ヒサゴの雪渓の登りで要した時間とアイゼン着脱に要した時間をおおまかにご教示ください。

(アイゼンを使うほどに雪がありましたか?雪がなくアイゼンを使わなかったのでしたら、お答えいただかなくって結構です。)

アイゼンをこのツァーで初めて使いました。一番長く勾配もありアイゼンがあれば安心という雪渓で、北アルプスのそれの小型のものだとおもいます。
雨と風があり少しガスっていたとおもいます。30分ぐらいかっかたと思います。ネパールのシェルパの人がスコップをもってステップを切ってくれて安心感を与えていました。
稜線まで計40分ぐらいと思います。着脱に時間はあまり掛からなかったと思います。

7.雪渓を上りきった地点(コル)で、風・気温・雨等、天候の変化を感じましたか。疲労や体の不調を訴えるお客さんはいましたか。

コルに着いたときは風はありましたが、撤退とかいうことを考えるようなものではなっかたと思います。故障をいう人はなっかたとおもいます。
なおここで言うのが適当とはおもいませんが体調のことはここで初めて聞かれたのでここで言っておきます。最初の日にすでに一人の女客が旭岳から白雲岳へ行く途中でうつむいてゲロをはくこと、ゲイゲイとやっていた。体調をくずしていたようです、ガイドに連絡しなにかやっていたようですが、自分の視界からきえました。その日にもう一度目撃し、次の日に一度目撃しました。
彼女が延期を言ったのかもしれませんが、彼女が最初の故障者(歩けない人)だとおもいます。ガイドはだから低体温症の判断を誤ったかもしれません。前日、前々日の延長と考え休ませてなんとかやってきたから今回ももう少しだから、推測です、わかりません。彼女のサポートに足を取られ、大幅な時間遅延がしょうじ、それが誤算だったようにおもいます。

8.雪渓を終えてからロックガーデン・天沼にいたるまでの天候状況は小屋出発時点と比べて劣悪と感じましたか。

(小屋を出る頃に比べて、天気が悪くなっておりましたか?という意味です。)

どこかで急に風雨がつよくなりました。自分はそのまえに隊列から抜け、そのためにあらかじめ前に出ておいてフリースを着ました。雨があり雨宿りもないところでカッパを脱ぐと、肌についているシャツが濡れるのでイヤだったが強引に着ました。それで肌寒さというか汗と風による寒さ冷たさから少しは逃れました。天沼からロックガーデンにかけてに木道があるとおもいますが、そこが一番風が強かったと思います。体とザックにたいする風の圧力で木道から飛び出すことになります。32歳ガイドが(自分も真ん中にいたから)風向きに向いて立ち横に歩けと言っていました。風のつよいときは屈めとも言いました。それでほとんど進めなくなりました。低気圧が通ったのかもしれません。7時30分〜10時と思いますが時間については後で述べたい。

9.北沼に至るまではふらつき、転倒する風と報道されていますが、具体的には、行動後何時間経過した時点でそのような気象条件になったのでしょうか。ときおりふらつく、烈風でバタバタ音を立てる雨具のフードを手で押さえる、風上に顔を向けられない、など、具体的な状況もご教示ください。

(報道記事によりますと、天気がとても悪くなったそうですが、ヒサゴ沼避難小屋を出てから、何時間ぐらいしてから、ものすごい風や雨となったのですか?風や雨は、レインコートのフードを手で抑えないと飛ばされてしまうほどでしたか?)

ザックカバーがめくれあがって困りました。ゴムをきつくしておいたのに、一度は直したが、次からは横に丸めて持つことにしました。大型ザックのカバーはどうもよくないようです、ふくれにふくれバタバタと音を立て取れそうになるといったところです。カッパのフードはゴムを強くして、あごのところに来るベルクロをつければ対応できます。時間ですがピークは8時〜9時と思います。低気圧の通過時刻はわかりませんか?トムラウシ分岐が10時30分とされていますが自分は11時〜11時30分と思います。小屋から5時間でなく6時間(コースタイムは2時間30分)です、2倍ではなく3倍に近い時間を食ったと思います。そして分岐の下で停滞したのが1時間半とされていますが、2時間と思います。2時間は現場で自分が最初に考えた時間です。出発が1時半でそうすると4時前に先行者コマドリ沢分岐で110番をいれた事と時間的矛盾が取り除かれます。出発が12時というのではコマドリ沢分岐まで時間がかかりすぎです。(地図では2:05です)

10.北沼までの休憩回数と一回の休憩時間をお知らせください。

天沼かそのさきの日本庭園のあたりかよくわかりませんが、木道があってそこが一番風が強かったとおもいます。そこまでに3回ほど休憩をとりました。1回5分ほどのたち休憩です。休むひまはなっかった。32歳ガイドは日没を心配したのだろうとおもいます。それから一度休憩の指示が出て休もうとしたら大粒の雨ふってきてあわてて出発となりました。(2分)そのあとは一度も休憩の指示は出ていません。32歳ガイドにはケアのしごとがでてきたようです。もう32歳ガイドは隊を率いていくことはやめ、サポートに集中しだしたと思います。
以後休憩するとか、食事を取れとか、フリースを着なさいなどの指示はなくなりました。だれも何も言いません。自分はみんなは食事をきちんととったのだるうか、これが生死の分かれ目になったのではと思っています。今思えばですけれど。自分はカッパのポケットにたくさん非常食を詰め込んでいたのできちんと食べましたが食べないままの人もいたかも知れません。低体温症になれば判断力も低下するそうですから。

11.北沼で最初に不調を訴えた登山客は列のどのあたりにいましたか。不調や疲労を表現できるタイプでしたか。遠慮するタイプでしたか。

(苦痛を我慢してしまうタイプか、大騒ぎをするタイプかということです。)

一番最後です。彼女は最初の日から調子が悪かった人だと思います。だれも皆遠慮しました。ツァーはそういうものです。わがままは言えません。大騒ぎなど誰がするものですか。そんな質問を受けるとは思いませんでした。

12.最初の行動不能者が発生したあと、パーティ待機の指示は誰が出しましたか。理由は説明されましたか。

(単に体調不良であるとか、頭がだるいとか、具体的に風邪ですとか、低体温症ですとか。)

だからそれは32歳ガイドがしました。添乗員の仕事とおもいますが、吉川さんはすでに低体温症にかかってていたのではとおもいます。32歳ガイドがふれ回ったと思います。理由の説明は一切ありません。みなを動揺させたくなかったとあとで語ったそうです。テレビだとおもいますが。

13.低体温症との判断はどの時点で誰によりなされましたか。

誰も低体温症と知らなかったと思います。救急隊によって、マスコミの発表によって救助の時にというのが自分の回答です。

14.低体温症であると判断されたあと具体的な処置はどのようなものだったと観察(推測)されましたか。

低体温症と判断したのではないと思いますが、最初の故障者が列の中ほどにいた38歳ガイドのところへ連れてこられ、彼が看護をすることになりました。これは出発40分前としておきます。サブガイドの仕事として看護があるといいますからそれに従ったのでしょう。彼は背中をさすり、大声で「元気を出せ」と叫んでいました。吉川さんがやってきてテルモスの湯を与えていました。ただそれだけです。もうしませんでした。

15.報道によれば、戸田さんは遭難と認めて救援要請をしてほしい旨をガイドに伝えた とのことですが、どのガイドに伝えましたか。また、そのときの返答はどういったものでしたか。通信状況はどのようなものでしたか。

自分がどなったときの10分前に、吉川さんのところへ出向き「どうしますか」ときくと、「ようすをみる」とだけこたえました。妙な答えです。自分はもとの位置にもどり10分まちましたが何も動きはありません。その時自分はこのままではみんな死を待つことになると突然思いました。それで遭難と認めてどうしたらよいか指示を出せといったのです。それは隊のみんなに訴えたのです、ガイドのだれに言ったのではありません。だから返答もありません。
自分は携帯をもたなっかたので通信状況は分かりません。持っていたら一方的に110番したと思います。かれらに110ばんを迫らなっかたのはまだ信頼していたからです。ここではできないのだと。4時半に32歳ガイドは会社にメールをいれていたといいます。自分は前トム平へ降りてきてしたのかとおもっていたら、頂上でできると教えてもらいました。そうすると38歳ガイドに依頼する必要はない、つまり依頼の要請はなかったのではと思います。また風雨がつよく通信はできないというひともいますが、出発のころはあまり風雨は感じなかったと思います。ピークは過ぎていたと思われます。なお時間の問題があります、出発が12じでは、コマドリ沢分岐で110番したのが4時と確定しているから4時間もかかったことになり(地図では2時間5分)おかしい。出発は1時半ごろではないか、あの時自分は空腹を覚え時計を見て1時20何分だったと記憶しています。それと待機時間は少なめに見て2時間とおぼえておこおうとしましたが人に説明するたびに少なめになっていったようです。これらはみな仮説ですからきちんと検証をする必要があリます。だから1時過ぎの電波状況が問題となり風雨は問題ないとなるとおもう。32歳ガイドがメールを4時30分にいれているがいやいやながら入れたかんじで探そうとしていなかったと思います。認めたくなかったのではとおもいます。

16.南沼→前トム平の天候について。どちら方面からの風が強かったですか。また天候に変化はありましたか。

下りでは風のことは忘れました。既におさまりつつあったと思います。

17.コマドリ沢より急な新道を登り、カムイ天上より泥んこの道を下ったと思いますが、そのときの天候、時間、登山道の状況について概況をご教示ください。

この辺のことが自分にはよくわかりません。?新道へ上るところでビバークを考え場所を探していて長田さんをみつけビバークすると伝えてくれといったら一緒に帰ろうというので歩きだしたが自分はビバークの場所を探していてつながりをぎゃくにかんがえてしまいもとにもどりました。それで1時間のロスとなりました。?それから真っ暗な道を一人、どうも谷道を歩いたようでよくわからない。とにかく黒い筋を歩くようにしていました。障害物は分からないので転ぶだけです。カッパが穴があいたし泥だらけです。道の状況などまったくわかりません。それで向こうから2人がきてそれが斐品さんと長田さんで、自分はもと来た方に戻ろうとしていたところを助かったということです。よくわからない。10時ごろか?天候は風もなく暖かくなっていたと思います。

18.報道では、松本ガイドは救助を呼ぶために、先を急いでいたとされています。携帯電話のつながるところに空身でとりあえずおりて登り返すといったことはされていましたか。

(軽装でいったん下降し、110番連絡した後に、皆がいるところに戻ってきたとか、そういったことがありましたか?という意味です。)

まったくの誤報です。彼の行為が理解できないので作り上げた作り話です。かれのあたまは自分のサバイバルだけと考えれば説明がつきます。かれは北沼の小川で客のサポートに回っていて背を水につけたと聞きました。待機中は自分の前で顔をしかめジッとしていました。彼はサバイバルのため先を急いだのです。曲がり角で10人を確認するようにと言われ、20m下でおーいおーいと叫び、自分がおーいおーいと答えると一目算に下って行ったのです。救援依頼の使命が告げられたというのは自分はその横にいたが聞いていません。コマドリ沢での110番も偶然によるものでかれが積極的にじぶんの携帯を出して連絡しようとした要素はどこにもない。だから上り返すというのは社長の願望がしゃべらせたフィクションです。かれはコマドリ沢分岐の上の草付きでねていて長田さんが見つけ目の前で電話しなさいといわれ5時に会社にメールを入れたのです。長田さんが自分にいったことです。そこへ自分が通りかかり義務があるという意味のことを言いました。彼は2人が去ってからハイマツ帯にもぐりこみ、翌朝の救援隊を避け最後の行方不明者となりそのご、道の近くに移動して登山客に見つけてもらったのです。救援隊にみつかるのはさけたっかたというわけです。じぶんのすいそくですよ。彼は命をつないだので非難は覚悟のうえとおもいます。

つづいて1日あけて8月1日に戸田さんに宛てた質問とその回答を転載します。
こちらも質問者はスワン、回答者は戸田新介さんです。

自分の言ってることはあくまで推理です。しかし当時のことを知ってる人は限られていて、責任の重さを感じています。ほかの人と話せるとはっきりするんですが。トムラウシ分岐で停滞したのが10:30〜12:00とされているのも自分が言い出したことが独り歩きしたようです。1時間30分の長さは「少なくとも」という意味で言ったのですが、10時30分は出発時からのおおよそをのべたのです。それが確定した事実のように扱われてしまって誰が言い出したかわからなくなりそうで、マスコミの怖いところです。

遭難発生時の時間と場所についてお聞きいたします。

19. 最初の故障者が発生した北沼に到着したのは11:30〜との認識でよろしいでしょうか。

トムラウシ分岐に着いたときです。ここで停滞しました。その始まりが11時30分と自分は今は考えています。北沼に到着したときは小川を渡ったときで、11時ごろかとおもいます。

19-2 そこで吉川さんが故障者に付き添いますが、その後一行が歩き出すのは何分後でしたでしょうか。

この故障者はすでにロックガーデンより前から吉川ガイドが付いていたようです。小川を渡るときも彼女だけ渡れず、32歳ガイドが別のところを探してきて手を伸ばしていました。この時38歳ガイドが水に入ったのだと思います。そして彼女をトムラウシ分岐まで連れてくる経緯が野首さんが語っているところでしょう。彼女をやっとトムラウシ分岐までつれてきて、十分に休ませるというのが停滞の原因だとおもいます。自分たちは何も知らされず彼女が来るまでと、彼女を休ませる時間を合わせて2時間待たされたのだと思います。1じ半に出発となりました。彼女を吉川ガイドのところに運ぶ予定で。

19-3 一行が前進を開始後、次の故障者が現れるのは場所はどこで何分後になりますか。

1時半に出発しようとしたら立てない人が一人出ました。低体温症が停滞中に発症したと思います。市川さんです。真鍋さんは彼女と一緒にツァーに参加したのですが、彼女が出発の時来なかったので心配していたと言っていました。
だから出発の時。出発のところで。彼女は32歳ガイドが機会をみつけて回収していったのでしょう。

19-4 32歳ガイドがテントを張って故障者を運び入れた地点と時間を覚えていましたら教えてください。

それは北沼から南沼方面にトラバースする道との分岐付近でしょうか。

じぶんたちはしゅっぱつしていたからわかりません。すぐではなく時間をかけて一人づつ運んだのでしょう。

19-5 32歳ガイドがケアに集中し始めた時点の一行の編成(各故障者とテントとの距離、故障していないパーティの位置)をご教示ください。

亀田   前田   真鍋  市川  岡  味田 竹内 長田   戸田  植垣 松本 第一故障者 植垣  斐品   野首  木村 女救出者 吉川
男生還 女生還 女生還  女亡 女亡 女亡 女亡 女生還 男生還 女亡 男生還 女亡     女亡 男生還 男生還  男亡 女生還  男亡
テントは32歳ガイドがあとで建てたのです。待機中はありません。

19-6 32歳ガイドが38歳ガイドに指示を出した時間と場所は第二の故障者収納テントと理解してよろしいでしょうか。

指示をだした時は出発から10分として1時40分。場所はトムラウシ分岐から70m下。テントはまだどこにもありません。吉川ガイドのところに2人を集めてどこにたてるかかんがえるということです。

19-7 1.5時間〜2時間の滞在中に風や雨に変化はみられましたか。

始めより弱くなったと思います。雨はばらばらと降る感じです。風はむしろ乾くので心地よいにですが、のちに体が冷えると肌についた下着のあせでたえられなくなってくる。

19-8 滞在時間が長引いた原因は、32歳ガイドが故障者の搬送に追われていたからと理解してよろしいでしょうか。

動転していてなにをすべきか考えていないのだ。方針なるものがなく、全員を連れていくとの考えにしがみついたのだと思います。危機対応能力の問題です。できたことは後で考えることにして、現実に対し最善を尽くすのが普通の考えだと思いますが、かれはその点でじゅうだいな欠点をかかえていたということでしょう。搬送に追われたのは現象であり原因ではありません。さらに言えば、かれは頂上付近で電波が通ることを知っていたのです。4時30分に会社にメールをいれているのが証拠です。風雨が強かったからという説もありますが風雨はおさまってきています。かれは携帯を出して連絡しようともしていない。なお38歳ガイドに救援を依頼したというのもよくわからない。頂上でできるのになぜ下に行くのか。だれもそんな話は聞いていません。あれは38歳ガイドの行為が理解できずマスコミが作った仮説でしかない。かれは偶然によって110番に関与したが、自分の携帯で詳しく連絡を取ろうともしていない。さらに前トム平あたりでためそうともしていない。これが自分の仮説です。

20. 32歳ガイドが『トムラウシ分岐』で10名を確認してほしいと38歳ガイドに伝えたとのことですが

それは南沼キャンプ場の分岐のことですか。

トムラウシ分岐のことならそうですが、そこから70m下というところです。

とりあえず以上です