Sub eightの管理人との関係が突然悪化(8月3日ごろ)

その後、戸田さんの質疑が第三回まで公開し終えた段階の8月3日ごろから、ウェブサイトの管理人のsilvaplaunaさんが突然、私に対して猜疑心をむき出しにするようになりました。

swanslab 様

いろいろお世話になりました。多田ガイドはじめ関係者の皆様には、これからが正念場となりましょう。

裁判の結果がどう転ぶかは分かりませんが、個人的にこの事例からは十分学ばせていただきましたので、あとは傍観者にまわろうと思います。

御答えいただかなくとも構いませんが、多田ガイドがアミューズ社の社員であるかどうか、彼自身がこの計画の企画立案に深く関与しているという情報に関しては、実際のところ、どうなのでしょう・・?

お立場上言えないとは思いますが、「第三者」から見ると、swanslab様は、身内を守るためにそういった不利な事実は隠しているのでは?との不信感が募ります。

やはり、腹を割った話しをなさらない方には、警戒する心が起こるものです。

そう考えると、swanslab様が質問19で、第二番目の発症者の方をめぐった「動き」を非常に詳細に追うのもおかしいなと感じます。遺体発見状況が分からないのでなんとも言えませんが、多田ガイドは、この女性をきちんと認識しテントに収容したのでしょうか?(あるいは見過ごしてしまったとか?)

いずれにしても、多田ガイドの刑事責任に絡んでくるからご注目なさっているのであろうと推察しております。
まぁ、傍観者の私には、詳細すぎる論点です。

北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 今回の事故について戸田新介様のご意見 と 幾つかのご回答 | 甲 武 相 山 の 旅

このコメントをうけてスワンは以下のように回答

silvaplauna様

私の関心は、どうして彼がこんな事故を起こしてしまったのかということ一点なのです。それは信じていただきたく思います。

多田くんがいつアミューズの社員になったのか私は正確なところはわかりません。しかし、たしか4年ほど前だったと思いますが、添乗員の資格をとったとか、そういったうわさ話的な情報は持っておりました。彼の専属ガイドという立場についても、風のうわさ程度でしかありませんが、派遣社員ともよべない、会社からはこき使われたあげく切捨て自由の不安定な立場ではなかったかと想像します。想像ですので、コメント欄をお読みの皆様におかれては、あまり「釣られ」ないで、いただければと思います。また、通常、札幌発ではなく、本州からの集客ツアーの場合、添乗員は本州の支店であることが普通でしょうね。その意味で、吉川ガイドが添乗を務めたとの説明には納得がいきました。他のツアー会社でもどこでもそうでしょう。

それから専属ガイドは、本州の支社の企画のツアーについて例年行われているツアーを’こなしている’というのが実情ではないでしょうか。ただ、行程表や装備表1,2枚で計画だというわけにはいきませんから、彼なりに登山計画のビジョンを立てて入山するはずです。また、もう少しあやふやな情報も私の耳には入っておりますが、公開すると一人歩きするのも危険ですので沈黙しております。

silvaplaunaさん。
こういった不確かな情報でよければ、彼のプライバシーに触れない範囲でおながしすることはもちろんやぶさかではございませんが、

身内を守るためにそういった不利な事実は隠しているのではないか

とのご質問は、少々とげが強すぎるのではないでしょうか。私は以前の申し上げましたとおり、多田くんには真実を話してほしいと願っております。できるならば、多田くんにはもっと違った判断をしてほしかった。質問19でしつこく状況を聞いたのは、空白の1時間半多田君は何をやっていたのかを知りたかったからです。

このように書かせていただいても不信をぬぐえないでしょうか。
メールでも書かせていただきましたが、本当はsilvaplaunaさんとも電話でもお話できれば話はスムーズだったと思います。しかし、当地では日本との時差がずいぶんあるうえ、通信事情も悪く、関係者とも事故以降ほとんど連絡がとれていません。それがとてもはがゆい毎日なのです。

それから、戸田さんなりの営業職員像を拝見して私は少し違和感を覚えております。なぜなら、添乗員系のガイドとはいえ、必ずしもお客さんを無理して引っ張りあげようとする人ばかりではありませんし、撤退の判断もあっけないほどシンプルな人もいます。一概にはいえません。ツアコンの見方は百人百様です。また事故の物語も、みる人の数だけあります。戸田史観はひとつの見方にすぎません。私としては、もう少し他の方の物語も明らかになればもっと全体像がみえてくるのかな、という気がしております。

いずれにしましても、ご気分を害されたことにつき、深くお詫びを申し上げます。いいかえると、私自身もあまりいいネタを提供できず、つまりはお払い箱ということなのかなぁ、と寂しくも思います(冗談です)。

これまでの更新活動、ほんとうにお疲れ様でございました。私には到底できないことでした。
深く感謝を申し上げます。

関連情報 8月7日追記

・・もしかして、と思い、2chの登山キャンプ版をのぞいてみた。当然ヲチ版があるんじゃないかと思って。
なんとか覗けたとはいえ、私はテロ支援国家四天王のひとつに数えられる国に滞在しており、アクセスは容易ではありません。ここイスラム原理主義国家のブロッキングは凄まじく、ちょっとでもエロいバナーが片隅にあろうものなら、とたんにブロッキングされるため、リアルタイムではまず閲覧できない。Googleキャッシュでどうにか流れを知った。つくづく言論の自由のありがたみを思い知った。しかし2ch恐るべし。叩かれてるのが自分じゃなくて本当によかった。しかし何かあったときに通報すらできない状況。。つくづく気をつけようと心に誓った。

関連情報 8月11日

気をつけようと心に誓ったけれど、誓うだけではだめでした。医者の不養生状態?
あ、スレのみなさん、こんにちは。
たまに読み出せる瞬間もあるのですが、やはりほとんどアクセスできず厳しい環境です。
おりしも通信環境問題ってこのテーマにもありましたね。
>897で紹介されていた  http://ktk-reader.appspot.com/ →ムリ(経済制裁のため、必要なドライバーが手に入らないことはしばしばあります)
さて、とひどいことになりましたが。
なんていうのか・・・展開に勢いがありすぎて、正直、気圧されました。
その気迫あふれる書き込みをみたあと、しばらく通信がとぎれる不安たるや。。
まあしばらくは動揺しましたが、駅で注意した人みたいに刺されるわけじゃないし、アクセス人口も延べ人数に比べると実数はごくわずかのようだし。また後ろめたい事実があるわけでもないので。もうしょうがないし、ほっとくしかないです。どうなるのかわかりませんが、これもまた運命なのでしょう。

あと、地図もコンパスも持たない登山愛好家による安全登山論をトンデモと認定したのが燃料投下だったといえば、いえなくもないですが、もう言及しませんのでご安心ください。

関連情報 8月12日追記

日本時間の今日の午後、過去ログ倉庫(mescalito)に「後輩」などキーワードを叩き込んでくる気持ちの悪いアクセスがありました。うっとおしいので一時的に公開レベルを下げました。

過去ログの公開レベルを引き下げた経緯 8月14日追記

結論:2chのスレッドに現れた名無しによる執拗な個人情報の詮索にうんざりしたためです。
鏡像に怯える者は好きにすればよいし、こういった書き込みを見つけては喜び勇んで2chにコピペするのも勝手ですが、他人に迷惑をかけてはいけません。

名無しによる詮索が始まった経緯は主観的には以下のとおりと推察されます。
登山・キャンプ板のスレッド「大雪山系遭難事故をマターリ語るスレ」において、8月4日ごろから、Subeight管理人に対する誹謗中傷が相次いで巻き起こり、それに呼応して当サイトやHNに対する中傷や批判が増えてきました。
当初は「サブエイトのガイド叩きは過剰だ」とか「サブエイトに比べるとスワンのサイトはまだしもまとも」といった類の言説が多かったように思います。8月5日ごろ、スレの誰かがサブエイトの管理人を「汁」と屈辱的な名称で呼ぶように提唱し、サブエイトへの批判はそれから数を増していきました。また呼応するように次第に私のサイトやHNへの中傷の表現が強めになっていきました。煽りにあおり返している状態です。もちろん誰が書き込んだかは特定できません。そのタイミングで私のサイトではアクセス履歴から2chからのアクセスが急増しているのをキャッチしましたので、毎日そのスレッドをウォッチすることにしました。とはいってもイスラム原理主義国家からの2chへのアクセスは容易ではなく、かなり苦労しました。書き込みはまずできません。何度か試しましたが、偶然何かの拍子に読めたり書けたりする、といった状態でした。とたんにブロックされるので書き込めたのかどうかの確認すらできません。丸一日まるでアクセスできないこともあります。
やがてスレッドの名無しのなかには、スワンへの中傷はサブエイトの管理人によるものではないかと勘繰る者が現れました。また逆に別の名無しはサブエイトへの誹謗中傷がスワンによるものだと強く思い込んだようです。8月12日ごろを頂点に、両者は正面から激突し、AAアートを駆使した空中戦をやるようになります。
私にしてみれば「ひぇぇやめてくれ、勘弁してくれよ」状態です。最後に、私の実名や身分を詮索する名無しが実名を晒し上げ、本名=スワンとしたうえで「紳士の仮面をかぶった汚物」とまでののしり、挙句の果てに、遭難問題のエントリとは無関係の過去のエントリやハテナの別のブログのコメントまでコピペが始まりました。
その頃、ようやくブロッキングされずに閲覧可能なルートを発見し、常時監視が実現しました。
気がついてみれば簡単でした。もう遅かったのですが。
一方、スレでは、8月10日ごろ、執拗にスワンの情報を引き出そうとする名無しの少なくとも一人のリモートホストが判明しました。以後、アクセス解析を複数の私のサイトに導入し、2chでスワンの過去記事に言及する書き込みとの時刻との相関関係等を調べた結果、同じリモートホストひとつからの書き込みと強く推認されました。同じPCから2名以上で書き込んでいる可能性も否定できませんので断定はできませんが、ほぼ同一犯と推定しています。

はっきりいいます。誰が何を書こうと自由ですし、批判も甘んじて受けます。実名についても検索すればわかることは以前から知っていました。別に名前が知られたところで痛手は大きくありません。
ただ、私が2chで面白おかしくサブエイトを弄んでいると勘違いして、その思い込みだけで、中傷を目的として実名や個人情報を晒したり、挙句に実名を名指しして「紳士の仮面をかぶった汚物」とまで罵るのは過剰反応にもほどがあります。
何ゆえ、そうではないかもしれないという別の可能性を留保しないのでしょうか。

名無しは、私がはてなブックマークコメントにおいて「地図もコンパスも持たない登山愛好家の安全管理論はトンデモ」と評したことを取り上げて、私を中傷する根拠として弁明しているようです。つまり、サブエイトに対して紳士的な態度をとりながらも、裏ではこんなに汚い言葉を吐いているではないかと。スレのどなたかがいうように、そういう物言い自体、第三者が発言するのは不自然というべきで、サブエイトの管理人の発言あるいはサブエイトの管理人のフリをしている何者かと推認に値するするわけですが、真相はわかりません。


accident, トンデモ こんな奴が安全登山云々してたのか。。。コメントする前に調査しとくんだったなぁ。あまりにうかつだった。反省。 (参考過去記事)これ思い出した→ http://d.hatena.ne.jp/mescalito/20041110/1100344497

これもはっきりいわせてもらいます。
ブックマークでの私のコメントはそれに限らず辛らつです。地図もコンパスも使ったことの無い人間が安全登山について語るな、というのは私の持論です。中傷でもなんでもありません。
また、そのブックマークをして以降は、サブエイトの記事に対する信頼はないものと思ってかまいません。裏と表があるのではなく、その時点で態度を改めたとご理解ください。しかしながら、それはそれまでお世話になったこととはまた別の話です。

さて、スレッドの名無しさんは、このブックマークコメントをみて、スワンがサブエイト批判を繰り返し、スレを荒らしているのではないかと勘繰ったようです。
つまり、その名無しは、スワンは8月5日の時点でサブエイトを見限った→そして2chのスレでサブエイト叩きを始めた、あるいははじめから二枚舌だった
という理解なのでしょう。サブエイトは客観的にも主観的にも被害者でしょう。間違いなく。
仮想敵に名指しされた、もう一方の被害者の側からいわせてもらえば、
そんなにわかりやすくサインを出す奴がいるのかよです。
というか、私にはサブエイトをからかったり誹謗したりする動機などひとつもないことだけは申し上げておきます。やってないという証拠もないのに、全然意味がないのは承知のうえですが。

知人が事故の当事者だったという出発点があって終始一貫して32歳ガイドを心配していると発言しているにもかかわらず、なにゆえ、その一方で2chで人をからかって遊んでると思うのか、そちらのほうがよほど理解に苦しみます。

生還者戸田新介さんの回答に対するコメント(7月31日〜8月3日)

silvaplauna様
質問のとりまとめとご連絡、ならびに議論の場のご提供、ありがとうございます。
戸田様
お客さんの自己責任論に違和感を覚えていらっしゃるお気持ち、私も同感です。
ツアーでは通常、すべてリーダーが判断します。もしかりに、下山口のバスで集合、あとは偶然一緒に歩いてたまたま一緒に泊まったお客にだけご飯を提供したというような計画だったとしたら自己責任かもしれませんが、そんな計画あるはずありません(いや、ごくたまに日帰りツアーで似たセンスのツアーをみかけることがあるのでオドロキですが)。

以下、ご回答に対するコメントを述べさせていただきます。

1.ガイドの印象

多田ガイドがリーダー格のようだった、とのことですね。少なくともルート評価と天気に関しては、彼に決定権があったのではないか、ということですね。
この問いは、17日、18日時点の新聞報道で松下社長が吉川ガイドがこの山域の経験者だという誤情報を流したあと、報道に訂正もされなかったため、再確認させていただくためにさせていただきました。

2.前日の天候と体力の消耗

かなり具体的にご回答いただき、状況がとてもよくわかりました。
事故パーティは小屋の一階でしたか。一階の場合、女性客は着替えをもっていても人目があり躊躇する可能性がありますね。また到着時のレインウエアについた雨のしずくが床におち、床もびしょ濡れであった可能性があります。

3.最終判断地

ご証言からあくまで小屋を最終判断場所と考えていたと推測されます。

4.防寒具の指示

どの報道をみても、悪天候のなか行動するにあたって防寒対策の指示がなされていた、との証言が見当たらなかったためご質問させていただきました。
戸田さんが知る限り、指示はなかったということですね。

5.ガイドの行動中の位置取り

先頭:多田ガイド 中間:松本ガイド 最後尾:吉川ガイド

そうすると行動中のパーティの状況は松本ガイドと吉川ガイドが多田ガイドに伝達する仕組みになっていたと思います。

6.雪渓の対処

第四のガイドがネパール人というのは、これまで報道されていませんでしたね。
テンバさんでしょうか。テンバさんは雪渓でサポートしたあと小屋に戻ったということですね。質問の趣旨は、着脱に時間がかかり、体力を消耗することもしばしばあるので、体力の消耗に寄与したかどうかの印象をお聞きしたかったのです。ご存知のとおり、悪天候の行動では、歩行中のみならず、休息中(じっとしているとき)でも体力を奪っていくものです。ですから、極力、長く休まないという戦略で行動する必要があります。しかしながら、そのためには、アップダウンの多い脚力を要する行程で休まずに動ける行動能力が問われるわけです。この点は別途質問させていただきました。

7−1 コルでの天候

風雨・気温ともに行動に余裕のある天候ということですね。

7−2 お客さんからの不調の訴えの有無

これは貴重なご証言です。つまり、最初の故障者(吉川さんと最初にビバークしお亡くなりになった女性)は、行動初日から体調不良のサインを出していたのですね。じつは、こういう場合の対応方法はガイドによってかなりばらつきがあることを私は知っています。私の経験でいうと、添乗員系のガイドに「あともう少しだからがんばりましょう」的な対応をする人が多い印象を持ちます。

あくまで印象です。個人ガイドツアーの場合、逆にお客さんの体調には神経質なまでにぴりぴりしている傾向があります。子供に自己管理を説教する親のような役割と認識しているガイドも多いです。そういう説教くさいガイドはお客さんが不調を言い出す前に、装備や体調を確認しようとする傾向があります。

添乗員系・個人ガイド系と書きましたが、これはこれでひとつの論点かと思います。しばしばガイドの立場が複雑であることが論じられておりますが、添乗員をかねたガイドは、サーバント(サービスの奉仕者)としてお客さんの満足度を上げる任務も負っており、なおかつ、事務所では顧客の営業もやっている場合が多いので、あなたはパーティについていける体調ではないので下山しましょうとはなかなかいいにくい。甘やかすインセンティブがどうしても強くなります。

しかし、アウトソースされた現地ガイドは、世間で言われているほど、保身的ではありません。むしろ初めてお会いしたお客さんとのしがらみがないうえ、顧客へのホスピタリティなどさして気にする必要もないので、自分の任務のひとつを安全管理と強く確信している気がいたします。貧弱な装備や不十分な体力で参加するお客さんに対してきつく説教するガイドもいます。これも程度問題であり、一長一短ですが。

今回の場合、体調不良のメンバーの管理がきちんとされていたかどうか、改めて問われそうです。

8.天候条件が急変した場所

>どこかで急に風雨がつよくなりました>
>天沼からロックガーデンにかけてに木道があるとおもいますが、そこが一番風が強かった>

それは天沼とロックガーデンの間にあるコルです。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=65422655
地図でご確認いただけるとお分かりになると思います。
ここは西側がクワウンナイ川の源流にあたり、けっこう大きな谷ですのでコル付近は風の通り道となっています。実はクワウンナイ川自体も上級者向け登山ルートのひとつとして知られており、私も何度か経験がありますが、クワウンナイ川縦走ルートでは、この木道付近で往復登頂するか、ヒサゴ沼に直行するかの判断をします。つまり、想定外の天候など緊急時に判断地を設けるとすればここです。

9.悪天候時のパーティの状況

風速20mというのをリアルに表現するのはとても大切と考えています。
>風のつよいときは屈めとも言いました。それでほとんど進めなくなりました>といったご証言もあわせますと、少なくとも天沼より先のルートでは行動可能な天気とはとてもいいがたかったと推察されます。

これをお聞きした趣旨は、しばしば山岳会等でよく議論されることですが、風速や視界何mといういかにも客観的な基準は、実は計測者の主観によってばらつきがあるため、もっと具体的な目印を共有して判断材料にしようということがいわれます。たとえば行動できる風の基準として、ザックが風で煽られる、フードやザックカバーが外れないか気になり気が散って行動に専念できない、などといった指標です。

今後、ツアー会社にお願いしたいことがあるとすれば、具体的な天気基準の共有ですね。ウェブサイトでもハンドブックなり冊子でもいくらでも情報共有手段はあるわけで、この会社はこういう行動準則をもっていると公示することで、お客さんも予測が立てやすくなります。

しかし、では、登山者が北海道の山をなめていたと結論付けていいかは大変疑問です。

なぜなら、ツアー会社がどんなに情報提供したとしても、それはあくまで消費者がツアー選択する際の判断の一助にはなりえても、それが事故の際の言い訳になりえるわけではないのはいうまでもないからです。会社ないしガイドと消費者との間では、情報量と分析力・技術・判断力すべてにおいて対等ではないからです。つまり、会社は一部のお客さんがうっかり間違えて自分の能力を超えた過酷なツアーに申し込んでしまった場合でも、参加を認めるかどうかの判断を含めて、適切に安全に配慮する義務があります。あるいは、途中で体調を崩してしまい、自分自身で適切な自己管理をしたいのは山々だか、自分の不調のためにパーティ全体に迷惑がかかることを思うと、誰にも不調を言い出せないといった状況を想像してみればわかるように、組織登山において、登山者の自己責任を云々する批判はあまりにも不合理です。それは戸田さんもお感じのとおり、自己責任とはいいがたいのです。リーダーおよびツアー会社の責任というべきなのですね。

引き続き戸田様のご回答へのコメントです

10.休憩と食事

天沼とロックガーデンの間のコルより先で、一度も休憩をとらず、かつ各自が食事をとっていたかどうか定かではないとのことですね。
休む余裕もなく食事をとる力もなくなって体力消耗の悪循環に陥っていった、そんな状況が想像されます。

11.最初に体調を崩していた客はレッドサインを出していたか

質問のなかで(大騒ぎ)とありますが、これは小池様の補足説明によるもので、私のイメージとは少し違います。私の質問は『不調や疲労を表現できるタイプでしたか』です。
私のリーダーとしての考え方を述べさせていただきますと、お客さんはできる限り体調に関して自己表現するべきです。ルートや天気に関してあれこれ意見をいうのも、勿論かまいませんが、これらの情報はガイドの参考にはなりません。ガイドが重視するのは、お客さん自身のレッドサインです。体調が悪いときに、きちんと悪いと報告できる、連絡できる、相談できる人は自己管理ができるお客さんです。逆に言えば、報連相ができない人は組織で行動するのに慣れていない人です。
ですから、カナリアのように、いわれなくとも報告をしてくれるお客さんは体調を隠そうとするお客さんより組織の動き方の参考になるのです。しかしながら、現実は、ほとんどのお客さんが沈黙します。迷惑かけまいという気持ちが先行してしまうためでしょう。きわめて日本的な感受性ですが、この現実を前提にガイドやリーダーは自己管理のできないお客さんの動向を把握する必要があります。一例ですが、お客が小屋で安眠できるようにと、自己判断で錠剤を割らずに普段より多量の睡眠薬を飲んで間違えて着の身着のままお茶をこぼしてぐったりしていることもあります。こういう危機を早期発見するのもガイドやリーダーの役割となります。

しかしながら、ご存知のように、多くの日本的な組織でそうであるように、部下には報連相をせよといっておきながら、いざ部下から進言を受けると、「それはお前が考えることではない」といってボスのプライドを傷つけることがあります。部下にとてはたいしたことのない事柄だと思っていても、上司にとっては内容ではなくその進言行為そのものが我慢がならないわけです。組織を長く経験すると、この微妙な空気、すなわち「報連相の作法」にはより敏感になるはずです。

ただ、登山のリーダーは、その場の空気がどのようなものであれ、自分自身がもつ、ある種のプライドそのものを自覚してセルフコントロールするべきでしょう。その意味で、「客のわがまま」というテーマは、客側の解決されるべき問題ではなくガイドの側でコントロールすべき問題なのです。

12.最初の行動不能者が発生したときの待機指示

>吉川さんはすでに低体温症にかかってていたのではとおもいます。
とご回答されておりますが、それは、最後尾に歩いていた吉川さんも動きが鈍くなっており、あまり言葉を発しなくなっていたとか、あるいは他人を対処できる状態ではなかったという意味でしょうか。
14のご回答で、列の最後にいた故障者が真ん中にいた38歳ガイドのところに連れてこられたというのは、吉川さんは自分で判断して対処方法を講じるといったことができなくなっていたのでしょうか。
つまり報道では、最初の故障者に付き添ってその場に滞在した、となっていますが、現実は介抱している間に自分も動けなくなりつつあった、ということでしょうか。

14.低体温症の対処の現実

背中をさする、テルモス(吉川さん持参)の湯を飲ませる、声をかける。
この3つ以外に何か思い出せませんか。
ここは、今後の教訓のキモになるところだと思います。

15−1.戸田さんが「救援要請をしろ」と訴えた時点の状況〜指揮系統の不在

通常、遭難の認識は具体的な対応策が尽きた時点でされるはずです。
たとえ計画を外れた認識があったとしても、軌道修正の道があると認識しているのであれば遭難と判断しないはずです。
しかし、16日11時30分の時点で、より風雨の強いと思われる天沼方面に引き返す現実味はなく、さりとて今後前トム平あたりまでは風上側の稜線をゆくことになります。私が考えても、最悪の場所で行動不能者が出ており、少なくとも故障者については、救援が必要な状況と認めるほかなかったと思います。戸田さんのおっしゃるように、これがもし低体温症であるとの認識をもっていれば、遭難と認めざるを得ないわけですが、ガイドからは反応がなかった。とすれば、ガイドの主観としては、低体温症の知識がなかったか、低体温症を認識していたが遭難と認めたくなかったかのどちらかしかないです。戸田さんの分析のとおりです。

通常、指示というのは誰がいつどうする、というように、具体的になされなければなりません。吉川さんは「様子をみる」とだけ返答し、そのまま10分経過、それだけでも、もはや指揮系統が存在しなくなったと理解してもおかしくありません。

15−2. 通信状況

北沼・南沼付近でどの時点で通信が可能になったかについては、やはりもう少し情報を集める必要がありそうですね。

17.コマドリ沢〜新道のルートについて

>自分はもと来た方に戻ろうとしていた
それは典型的なリングワンデリング(彷徨)といえます。
斐品さんと長田さんとはその後一緒に行動されたのでしょうか。
記録によると、斐品さんと長田さんは0時55分に短縮道ではなく、東大雪荘へ直接向かう林間コースを下山したようにもみえます。
一方、戸田さんは、短縮登山口の標識を左に曲がったのでしょうか。

18.38歳ガイドの行動

そもそも多田くんからの指示は10名まとめて下山とのことですので、救援要請のため下山したというのはおかしな話だと思っていたのですが、自分自身も背中をぬらし体力を消耗してゆく中で、お客さんのケアをするとなれば共倒れになりかねません。苦渋の決断としてお客さんを完全にぶっちぎって空身で走って携帯の通話エリアまで下山するという選択もありえたかと思います。まさにトリアージ的な究極の選択ですが。現実はそのどちらでもなかった。戸田さんの解釈は非常にリアルです。一人の客としてそのように映じたというのは、確かです。ただこの点は、本人ふくめた別の人の見方もお聞きしたいところです。

ところで、下山路の動きをもう少しみていると、真鍋さんの行動がひとつ気になります。サンケイの報道では
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/090723/dst0907231350013-n2.htm
一方、戸田さんは11人がばらばらになった後、コマドリ沢分岐から山頂方向に約1キロの前トム平の手前で、歩けなくなった女性に手を貸していた長田良子さん(69)=仙台市=に「手伝って」と頼まれた。もう1人女性がいたが、突然倒れて起き上がらない。戸田さんらは2人を引っ張って雪渓を滑り降りたが、戸田さんは「自分のやれる範囲を超えている」と思い、歩き始めた。近くでは真鍋記余子さん(55)=浜松市=が別の女性を介抱していた。とあります。彼女は、最終的に前トム平で救出されていますが、記事の読みようによっては、コマドリ沢にいたる雪渓の下りで救助活動をしたあと、前トム平にもう一度引き返し、別の登山者の介抱をしていたようにもみえるからです。もしそうだとすればすごいことです。

もし情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、教えていただけないでしょうか。

いずれにしても
戸田様 細かい質問にお答えいただきまして誠にありがとうございます。
まだ事実として不明な点は多いのですが、おおよその今後の対策のあり方はみえてきたように思います。またおりにふれてご質問させていただきたく存じます。どうぞよろしくお願いいたします。

引き続き戸田様のご回答へコメントいたします。

19.北沼到着時刻

午前11時北沼(渡渉後)着。
午前11時30分トムラウシ頂上と南沼方面との分岐点

通常の天候ですと、アミューズPTが渡渉したという小川そのものが存在しません。北沼の湖水が溢れて小川となってワセダ沢方面へ越流しているところを登山道が横切っていたということだと思われます。その光景は、実はみてはいけない光景だったのではないかと思います。かつてコマドリ沢(カムイサンケナイ川)の増水により旧道が通行できないことがあった時代(2002年以前)には、エスケープルートを引き返してしまいますので北沼の越流など、まず見ることができない光景です。

19−2.最初の故障者の発生から行動再開まで

この故障者はすでにロックガーデンより前から吉川ガイドが付いていたようです。とのことですが、つまり、最初の故障者はロックガーデンから遅れ気味で、パーティから少し離れていたということですね。
小川を渡るときも彼女だけ渡れず、32歳ガイドが別のところを探してきて手を伸ばしていました。との証言から、渡渉に際して、元の登山道をどこでもジャブジャブ渡れるわけではなく、場所を選ばなければ足をとられるほどの水流があったと推察されます。北沼はそもそも雪渓が解けてできた湖水で、冷たい水です。付近は永久凍土の研究がなされるツンドラ地帯のようなところです。また松本ガイドが背中をぬらしたのは不用意に歩いて足を取られてすっころんだせいと思われます。
その後、この渡渉にすっかり消耗した最初の故障者は、南沼とトムラウシ頂上との分岐まで、岩についたペンキを頼りに両手両足フル稼働でよじ登って(トラバース)ようやく分岐にたどりついた。11時半になっていました。通常、小川付近から分岐まで10分です。大多数は分岐手前ですでに20分くらいは待ったかもわかりませんね。到着するや、行動が不能になった。さて、ここから頂上を目指すという判断はありえず、吉川さんが故障者の手当てに回ることになります。

不可解なのは、ここからさらに一時間半ほど最初の故障者を休ませる間、他のメンバーを吹きさらしの北沼のほとりで放置していたことです。いったいなぜなのでしょう。これがいまだにわかりません。あとになって先を急いだ松本ガイドではありませんが、じっとしていればますます消耗するため、皆さん半ば本能的に歩きたいはずです。しかし、またされます。質問19-7によれば、このときの天候は、風時々雨。ときおりバラバラと雨が降る、風の強い天候だったようです。このときの天候を戸田さんは風はむしろ乾くので心地よいにですが、のちに体が冷えると肌についた下着のあせでたえられなくなってくる。と回想しています。

19−3.

さて、午後1時半。吉川さんと最初の故障者が居残ることが決まり、残り16名が南沼方面へ出発します。推測ですが、ここで野首さんがツエルトを吉川さんと故障者のために提供できることになったのでしょうか。
ところが出発してまもなく、お客さんの一人がついてこないことに別のお客さんが気がつきます。このときのPTの編成はどうだったのでしょうか。もし多田ガイド先頭松本ガイド最後尾であれば、遅れたひとりは松本ガイドと一緒に遅れてしまったということになりそうです。しかし、戸田さんによれば、彼女は32歳ガイドが機会をみつけて回収していったのでしょう。と推測されています。つまり、第二の故障者は一行から取り残されているかっこうだった可能性があります。
一行は第二の故障者が出発できないのに気がつかずに、さらに前進をつづけ70mほど歩いたところ(さきほどの分岐と南沼との間)で次々に故障者が現れたことになります。19-5.によれば、この時点すなわち再出発後10分後の午後1時40分に多田ガイドがテントを設営し、行動不能者を残留させ、手当てに専念する判断をしたものと思われます。
しかし、だとすれば、このときの松本ガイドの位置取りが大変気になります。彼は出発せずに第二の故障者とともにその場で手当てを始めたのか、それとも第二の故障者に気がつかずに一行の最後尾を歩いていたのか。それとも、最後尾を歩いていなかったから気がつかなかったのか。多田ガイドがテントを設営している間、第二の故障者の状態は誰がみていたのでしょうか。

この空白の1時間半の間に何があったのか。滞在時間が長引いた理由がいまだにわかりません。そして、再出発したとき、出発する力をすでに失っていた第二の犠牲者は発見されるまでの間、どのくらい時間が経過していたのか。そしてそれはなぜなのか。この二つの疑問が残ります。

それはリーダースタッフが低体温症になって頭が正常に動かなくなってきていた、といえば簡単かもしれませんが。

20.テントを張って自分を含めて6名の残留を決定した多田ガイドは、残りの10名をまとめてトムラウシ分岐で確認してくれ、と松本ガイドに伝達したと報道にあります。戸田さんは用語を勘違いしておられますが、多田ガイドのいうトムラウシ分岐とは、その先にある南沼キャンプ場付近のことです。

もし多田ガイドが10名という言い方をしていたのだとすれば、このときには一行から70m離れた、吉川さん残留地付近にいる取り残された第二の故障者の認識があったことになります。吉川さんと第一の故障者(植原さん)が使用するツエルトの収容能力が足りないので、多田ガイドが機会を見つけて70m搬送したと戸田さんは推測しているようです。

さて、ここから先(南沼〜コマドリ沢出会いの間)のルートでのリーダーの判断については質問を控えさせていただきました。南沼付近(トムラウシ分岐)で松本ガイドが全員を確認することになっていたことは報道のとおりで間違いないでしょう。しかし、現実には木村さんがこの付近でお亡くなりになっております。

松本ガイドが分岐付近で、おーいと叫んだその言葉を最後に木村さんは動けなくなり、一行から取り残されます。
ここからの修羅場は、生きるか死ぬかの瀬戸際で、ぎりぎりまで助け合い、ともに生き抜こうと努力を重ねられ、そして生還を果たしたひとたちに「あなたは、よくぞがんばりました。十分がんばりました。自らの限界を越えずによくぞ生きて帰りました。」とだけお伝え申し上げたく存じます。

戸田様

わたくしからの質問は以上でございます。

戸田様におかれましては、一日もはやく平穏な日常にお戻りになられることを深くお祈り申し上げます。

数十項目に及ぶ質問項目に、詳細にお答えいただきまして誠にありがとうございました。

生還者戸田新介さんとの一問一答

戸田新介様
はじめまして。私は今回のガイドのひとりの多田くんの直接の先輩ではありませんが、彼のかつての所属クラブの登山を通じて、彼の人となり、登山に対する考え方など、ある程度しっている人間です。それだけに今回の事件は愕然とさせられました。戸田さんにおかれては、生還されてまだ日が浅く、胸中は察するにあまりあります。
ほんとうは山ほどお聞きしたいことがございますけれども、決して思い出したくないこともおありでしょう。私の質問はまとめさせていただきまして、いったんこのサイトのウェブマスターにEメールにてお預けしたいと思います。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-309より

・以下設問はスワン(カッコ内の文言はsilvaplaunaさんによる補足説明)、回答は戸田さん。

まず、ガイドの様子についてお聞きします。

1.登山全体を通して、計画、状況、判断の説明をする人は、三名のガイドのうち誰でしたか。

(ガイドの名前は吉川ガイド 多田ガイド 松本ガイドのうち誰がリーダー格でしたか?という意味です。独りの人が全部決めていたのか、それとも、役割分担があったのかを知りたいのです。

32歳ガイドがすべてを決めていたとおもいます。北海道がはじめてで、気候やコースについて何も知らない人になんの決定権がありましょう。38歳ガイドとは行きの飛行機で相席となり、彼が「夏休みの代わりとして会社があたえてくれた」といっているのをきいています。つまり責任の軽いもので、お手伝いをすればよいとかんがえていたようです。吉川ガイドのことは分からないが、「雨は気にしないで歩けばよい」といったことをいう人です。(じぶんへの発言)また携帯は持たないとウソをいう人です。最終日には「今日は皆さんを下に送り届けるのがしごとです。」といっていたといいます。

2.前日(15日)の天候をご教示ください。

(どのくらいの雨だったかとか、結構衣類が濡れてしまったとか・・、寒かったとか・・、避難小屋についても乾かなかったとか、そういった情報です。)

前日は朝から終日雨でした。風速は5mぐらいです。山の雨ですからはじめはそれほどには気にならなかったのですが、そのうちからだの芯からぬれたようにかんじました。眼鏡が外側は雨粒がつき、内側は曇り苦労しました。ただ着衣は上は春夏ようのジャッケトとゴアのカッパで十分でした。下着まで全部ずぶぬれです。靴はズクズクで靴下は絞れるほどです。自分は全部着替えましたが着干しの人もいました。女客のことは分かりませんが雨具以外を干しているようではなかったとおもいます。シラフをはんぶんぬらしシラフカバーを中にして寝ました。シラフを濡らした人は他にいると思いますが、どうしたでしょう。着替える場所はありません。
2階は別のグループと個人がつかい一階は私たちが使いました。干す場所がなくてこまりました。なおこの日は一時間早く小屋につきました。けっこう急がされたという感じです。それが翌日の判断ミスにつながったと思います。雨の中休む気にはなれませんし、平たんのコースで翌日の参考にはならんと思いますがねえ。

3.最終判断をなしうるガイドはヒサゴ沼を出発するとき、理由を説明しましたか。そして、次にどこで天候の判断をすると説明していましたか。

(リーダー格のガイドさんは16日朝に避難小屋を出るときに、なぜ予定通りにトムラウシ温泉に向かうのか、メンバーに説明しましたか?天気が悪くなったらどうするとか、しばらくトムラウシのほうに進んで天気の様子を見るとか言っていましたか?ということです。)

自分はトイレに行ってて、その間に全部終わっていたようです。30分の延期はとなりに寝ていた木村さん(死亡)が教えてくれました。様子を見る、30分延期するというのです。妙だとおもいましたが、30分遅らせれば天気のピークをやり過ごせるとでも考えたのだとおもいます。それと30分以上は長い距離(予定タイムは10時間30分となていました)を考えると無理と思ったようです。だれかが中止を言い出したと報道にありますがそれは女客だとおもいます。だれが言い出したか知りたいのにいまだに分かりません、たぶん亡くなられたのだと思います。女客で生還した人なら分かるかもしれません。32歳ガイドが昼には天気が回復すると言って決行を決めたとの報道があります。途中での天気の判断なるものは彼(32歳)の頭にはなかったと思います。そのような話は誰からも聞いていません。途中で様子をみるという話もありません.そんなそぶりはありませんでした。りょうせんにでてからは前を見て歩くことだけ考えていました。

4.出発時にガイドはお客さんの装備(アイゼン・防寒具)のチェックをしましたか。ヒサゴ沼避難小屋を出る時点で重ね着の指示はありましたか。

(寒さ対策に中間着を着てくださいとか、フリースを着てくださいとかのアドバイスがなされましたか?という質問です。)

チェックはありません。ストックのゴムを抜くようにとの指示が32歳ガイドからありました。アイゼンはすぐに出せるようにというのは別のガイドの指示です。これは誰かが聞いたからでそうでなければ指示はなかったでしょう。重ね着の指示はありません、誰も聞かなっかたからだとおもいます。

5.事故当日(16日)、先頭を歩いたガイドさんは誰ですか。最後尾を歩いたガイドさんは誰ですか。

先頭は今回を通じて32歳ガイドがつとめました,正ガイドの務めだそうです。最後は添乗員たる吉川ガイドがつとめ、サブガイドの38歳ガイドは中間に位置すると決めていたようです。

6.ヒサゴの雪渓の登りで要した時間とアイゼン着脱に要した時間をおおまかにご教示ください。

(アイゼンを使うほどに雪がありましたか?雪がなくアイゼンを使わなかったのでしたら、お答えいただかなくって結構です。)

アイゼンをこのツァーで初めて使いました。一番長く勾配もありアイゼンがあれば安心という雪渓で、北アルプスのそれの小型のものだとおもいます。
雨と風があり少しガスっていたとおもいます。30分ぐらいかっかたと思います。ネパールのシェルパの人がスコップをもってステップを切ってくれて安心感を与えていました。
稜線まで計40分ぐらいと思います。着脱に時間はあまり掛からなかったと思います。

7.雪渓を上りきった地点(コル)で、風・気温・雨等、天候の変化を感じましたか。疲労や体の不調を訴えるお客さんはいましたか。

コルに着いたときは風はありましたが、撤退とかいうことを考えるようなものではなっかたと思います。故障をいう人はなっかたとおもいます。
なおここで言うのが適当とはおもいませんが体調のことはここで初めて聞かれたのでここで言っておきます。最初の日にすでに一人の女客が旭岳から白雲岳へ行く途中でうつむいてゲロをはくこと、ゲイゲイとやっていた。体調をくずしていたようです、ガイドに連絡しなにかやっていたようですが、自分の視界からきえました。その日にもう一度目撃し、次の日に一度目撃しました。
彼女が延期を言ったのかもしれませんが、彼女が最初の故障者(歩けない人)だとおもいます。ガイドはだから低体温症の判断を誤ったかもしれません。前日、前々日の延長と考え休ませてなんとかやってきたから今回ももう少しだから、推測です、わかりません。彼女のサポートに足を取られ、大幅な時間遅延がしょうじ、それが誤算だったようにおもいます。

8.雪渓を終えてからロックガーデン・天沼にいたるまでの天候状況は小屋出発時点と比べて劣悪と感じましたか。

(小屋を出る頃に比べて、天気が悪くなっておりましたか?という意味です。)

どこかで急に風雨がつよくなりました。自分はそのまえに隊列から抜け、そのためにあらかじめ前に出ておいてフリースを着ました。雨があり雨宿りもないところでカッパを脱ぐと、肌についているシャツが濡れるのでイヤだったが強引に着ました。それで肌寒さというか汗と風による寒さ冷たさから少しは逃れました。天沼からロックガーデンにかけてに木道があるとおもいますが、そこが一番風が強かったと思います。体とザックにたいする風の圧力で木道から飛び出すことになります。32歳ガイドが(自分も真ん中にいたから)風向きに向いて立ち横に歩けと言っていました。風のつよいときは屈めとも言いました。それでほとんど進めなくなりました。低気圧が通ったのかもしれません。7時30分〜10時と思いますが時間については後で述べたい。

9.北沼に至るまではふらつき、転倒する風と報道されていますが、具体的には、行動後何時間経過した時点でそのような気象条件になったのでしょうか。ときおりふらつく、烈風でバタバタ音を立てる雨具のフードを手で押さえる、風上に顔を向けられない、など、具体的な状況もご教示ください。

(報道記事によりますと、天気がとても悪くなったそうですが、ヒサゴ沼避難小屋を出てから、何時間ぐらいしてから、ものすごい風や雨となったのですか?風や雨は、レインコートのフードを手で抑えないと飛ばされてしまうほどでしたか?)

ザックカバーがめくれあがって困りました。ゴムをきつくしておいたのに、一度は直したが、次からは横に丸めて持つことにしました。大型ザックのカバーはどうもよくないようです、ふくれにふくれバタバタと音を立て取れそうになるといったところです。カッパのフードはゴムを強くして、あごのところに来るベルクロをつければ対応できます。時間ですがピークは8時〜9時と思います。低気圧の通過時刻はわかりませんか?トムラウシ分岐が10時30分とされていますが自分は11時〜11時30分と思います。小屋から5時間でなく6時間(コースタイムは2時間30分)です、2倍ではなく3倍に近い時間を食ったと思います。そして分岐の下で停滞したのが1時間半とされていますが、2時間と思います。2時間は現場で自分が最初に考えた時間です。出発が1時半でそうすると4時前に先行者コマドリ沢分岐で110番をいれた事と時間的矛盾が取り除かれます。出発が12時というのではコマドリ沢分岐まで時間がかかりすぎです。(地図では2:05です)

10.北沼までの休憩回数と一回の休憩時間をお知らせください。

天沼かそのさきの日本庭園のあたりかよくわかりませんが、木道があってそこが一番風が強かったとおもいます。そこまでに3回ほど休憩をとりました。1回5分ほどのたち休憩です。休むひまはなっかった。32歳ガイドは日没を心配したのだろうとおもいます。それから一度休憩の指示が出て休もうとしたら大粒の雨ふってきてあわてて出発となりました。(2分)そのあとは一度も休憩の指示は出ていません。32歳ガイドにはケアのしごとがでてきたようです。もう32歳ガイドは隊を率いていくことはやめ、サポートに集中しだしたと思います。
以後休憩するとか、食事を取れとか、フリースを着なさいなどの指示はなくなりました。だれも何も言いません。自分はみんなは食事をきちんととったのだるうか、これが生死の分かれ目になったのではと思っています。今思えばですけれど。自分はカッパのポケットにたくさん非常食を詰め込んでいたのできちんと食べましたが食べないままの人もいたかも知れません。低体温症になれば判断力も低下するそうですから。

11.北沼で最初に不調を訴えた登山客は列のどのあたりにいましたか。不調や疲労を表現できるタイプでしたか。遠慮するタイプでしたか。

(苦痛を我慢してしまうタイプか、大騒ぎをするタイプかということです。)

一番最後です。彼女は最初の日から調子が悪かった人だと思います。だれも皆遠慮しました。ツァーはそういうものです。わがままは言えません。大騒ぎなど誰がするものですか。そんな質問を受けるとは思いませんでした。

12.最初の行動不能者が発生したあと、パーティ待機の指示は誰が出しましたか。理由は説明されましたか。

(単に体調不良であるとか、頭がだるいとか、具体的に風邪ですとか、低体温症ですとか。)

だからそれは32歳ガイドがしました。添乗員の仕事とおもいますが、吉川さんはすでに低体温症にかかってていたのではとおもいます。32歳ガイドがふれ回ったと思います。理由の説明は一切ありません。みなを動揺させたくなかったとあとで語ったそうです。テレビだとおもいますが。

13.低体温症との判断はどの時点で誰によりなされましたか。

誰も低体温症と知らなかったと思います。救急隊によって、マスコミの発表によって救助の時にというのが自分の回答です。

14.低体温症であると判断されたあと具体的な処置はどのようなものだったと観察(推測)されましたか。

低体温症と判断したのではないと思いますが、最初の故障者が列の中ほどにいた38歳ガイドのところへ連れてこられ、彼が看護をすることになりました。これは出発40分前としておきます。サブガイドの仕事として看護があるといいますからそれに従ったのでしょう。彼は背中をさすり、大声で「元気を出せ」と叫んでいました。吉川さんがやってきてテルモスの湯を与えていました。ただそれだけです。もうしませんでした。

15.報道によれば、戸田さんは遭難と認めて救援要請をしてほしい旨をガイドに伝えた とのことですが、どのガイドに伝えましたか。また、そのときの返答はどういったものでしたか。通信状況はどのようなものでしたか。

自分がどなったときの10分前に、吉川さんのところへ出向き「どうしますか」ときくと、「ようすをみる」とだけこたえました。妙な答えです。自分はもとの位置にもどり10分まちましたが何も動きはありません。その時自分はこのままではみんな死を待つことになると突然思いました。それで遭難と認めてどうしたらよいか指示を出せといったのです。それは隊のみんなに訴えたのです、ガイドのだれに言ったのではありません。だから返答もありません。
自分は携帯をもたなっかたので通信状況は分かりません。持っていたら一方的に110番したと思います。かれらに110ばんを迫らなっかたのはまだ信頼していたからです。ここではできないのだと。4時半に32歳ガイドは会社にメールをいれていたといいます。自分は前トム平へ降りてきてしたのかとおもっていたら、頂上でできると教えてもらいました。そうすると38歳ガイドに依頼する必要はない、つまり依頼の要請はなかったのではと思います。また風雨がつよく通信はできないというひともいますが、出発のころはあまり風雨は感じなかったと思います。ピークは過ぎていたと思われます。なお時間の問題があります、出発が12じでは、コマドリ沢分岐で110番したのが4時と確定しているから4時間もかかったことになり(地図では2時間5分)おかしい。出発は1時半ごろではないか、あの時自分は空腹を覚え時計を見て1時20何分だったと記憶しています。それと待機時間は少なめに見て2時間とおぼえておこおうとしましたが人に説明するたびに少なめになっていったようです。これらはみな仮説ですからきちんと検証をする必要があリます。だから1時過ぎの電波状況が問題となり風雨は問題ないとなるとおもう。32歳ガイドがメールを4時30分にいれているがいやいやながら入れたかんじで探そうとしていなかったと思います。認めたくなかったのではとおもいます。

16.南沼→前トム平の天候について。どちら方面からの風が強かったですか。また天候に変化はありましたか。

下りでは風のことは忘れました。既におさまりつつあったと思います。

17.コマドリ沢より急な新道を登り、カムイ天上より泥んこの道を下ったと思いますが、そのときの天候、時間、登山道の状況について概況をご教示ください。

この辺のことが自分にはよくわかりません。?新道へ上るところでビバークを考え場所を探していて長田さんをみつけビバークすると伝えてくれといったら一緒に帰ろうというので歩きだしたが自分はビバークの場所を探していてつながりをぎゃくにかんがえてしまいもとにもどりました。それで1時間のロスとなりました。?それから真っ暗な道を一人、どうも谷道を歩いたようでよくわからない。とにかく黒い筋を歩くようにしていました。障害物は分からないので転ぶだけです。カッパが穴があいたし泥だらけです。道の状況などまったくわかりません。それで向こうから2人がきてそれが斐品さんと長田さんで、自分はもと来た方に戻ろうとしていたところを助かったということです。よくわからない。10時ごろか?天候は風もなく暖かくなっていたと思います。

18.報道では、松本ガイドは救助を呼ぶために、先を急いでいたとされています。携帯電話のつながるところに空身でとりあえずおりて登り返すといったことはされていましたか。

(軽装でいったん下降し、110番連絡した後に、皆がいるところに戻ってきたとか、そういったことがありましたか?という意味です。)

まったくの誤報です。彼の行為が理解できないので作り上げた作り話です。かれのあたまは自分のサバイバルだけと考えれば説明がつきます。かれは北沼の小川で客のサポートに回っていて背を水につけたと聞きました。待機中は自分の前で顔をしかめジッとしていました。彼はサバイバルのため先を急いだのです。曲がり角で10人を確認するようにと言われ、20m下でおーいおーいと叫び、自分がおーいおーいと答えると一目算に下って行ったのです。救援依頼の使命が告げられたというのは自分はその横にいたが聞いていません。コマドリ沢での110番も偶然によるものでかれが積極的にじぶんの携帯を出して連絡しようとした要素はどこにもない。だから上り返すというのは社長の願望がしゃべらせたフィクションです。かれはコマドリ沢分岐の上の草付きでねていて長田さんが見つけ目の前で電話しなさいといわれ5時に会社にメールを入れたのです。長田さんが自分にいったことです。そこへ自分が通りかかり義務があるという意味のことを言いました。彼は2人が去ってからハイマツ帯にもぐりこみ、翌朝の救援隊を避け最後の行方不明者となりそのご、道の近くに移動して登山客に見つけてもらったのです。救援隊にみつかるのはさけたっかたというわけです。じぶんのすいそくですよ。彼は命をつないだので非難は覚悟のうえとおもいます。

つづいて1日あけて8月1日に戸田さんに宛てた質問とその回答を転載します。
こちらも質問者はスワン、回答者は戸田新介さんです。

自分の言ってることはあくまで推理です。しかし当時のことを知ってる人は限られていて、責任の重さを感じています。ほかの人と話せるとはっきりするんですが。トムラウシ分岐で停滞したのが10:30〜12:00とされているのも自分が言い出したことが独り歩きしたようです。1時間30分の長さは「少なくとも」という意味で言ったのですが、10時30分は出発時からのおおよそをのべたのです。それが確定した事実のように扱われてしまって誰が言い出したかわからなくなりそうで、マスコミの怖いところです。

遭難発生時の時間と場所についてお聞きいたします。

19. 最初の故障者が発生した北沼に到着したのは11:30〜との認識でよろしいでしょうか。

トムラウシ分岐に着いたときです。ここで停滞しました。その始まりが11時30分と自分は今は考えています。北沼に到着したときは小川を渡ったときで、11時ごろかとおもいます。

19-2 そこで吉川さんが故障者に付き添いますが、その後一行が歩き出すのは何分後でしたでしょうか。

この故障者はすでにロックガーデンより前から吉川ガイドが付いていたようです。小川を渡るときも彼女だけ渡れず、32歳ガイドが別のところを探してきて手を伸ばしていました。この時38歳ガイドが水に入ったのだと思います。そして彼女をトムラウシ分岐まで連れてくる経緯が野首さんが語っているところでしょう。彼女をやっとトムラウシ分岐までつれてきて、十分に休ませるというのが停滞の原因だとおもいます。自分たちは何も知らされず彼女が来るまでと、彼女を休ませる時間を合わせて2時間待たされたのだと思います。1じ半に出発となりました。彼女を吉川ガイドのところに運ぶ予定で。

19-3 一行が前進を開始後、次の故障者が現れるのは場所はどこで何分後になりますか。

1時半に出発しようとしたら立てない人が一人出ました。低体温症が停滞中に発症したと思います。市川さんです。真鍋さんは彼女と一緒にツァーに参加したのですが、彼女が出発の時来なかったので心配していたと言っていました。
だから出発の時。出発のところで。彼女は32歳ガイドが機会をみつけて回収していったのでしょう。

19-4 32歳ガイドがテントを張って故障者を運び入れた地点と時間を覚えていましたら教えてください。

それは北沼から南沼方面にトラバースする道との分岐付近でしょうか。

じぶんたちはしゅっぱつしていたからわかりません。すぐではなく時間をかけて一人づつ運んだのでしょう。

19-5 32歳ガイドがケアに集中し始めた時点の一行の編成(各故障者とテントとの距離、故障していないパーティの位置)をご教示ください。

亀田   前田   真鍋  市川  岡  味田 竹内 長田   戸田  植垣 松本 第一故障者 植垣  斐品   野首  木村 女救出者 吉川
男生還 女生還 女生還  女亡 女亡 女亡 女亡 女生還 男生還 女亡 男生還 女亡     女亡 男生還 男生還  男亡 女生還  男亡
テントは32歳ガイドがあとで建てたのです。待機中はありません。

19-6 32歳ガイドが38歳ガイドに指示を出した時間と場所は第二の故障者収納テントと理解してよろしいでしょうか。

指示をだした時は出発から10分として1時40分。場所はトムラウシ分岐から70m下。テントはまだどこにもありません。吉川ガイドのところに2人を集めてどこにたてるかかんがえるということです。

19-7 1.5時間〜2時間の滞在中に風や雨に変化はみられましたか。

始めより弱くなったと思います。雨はばらばらと降る感じです。風はむしろ乾くので心地よいにですが、のちに体が冷えると肌についた下着のあせでたえられなくなってくる。

19-8 滞在時間が長引いた原因は、32歳ガイドが故障者の搬送に追われていたからと理解してよろしいでしょうか。

動転していてなにをすべきか考えていないのだ。方針なるものがなく、全員を連れていくとの考えにしがみついたのだと思います。危機対応能力の問題です。できたことは後で考えることにして、現実に対し最善を尽くすのが普通の考えだと思いますが、かれはその点でじゅうだいな欠点をかかえていたということでしょう。搬送に追われたのは現象であり原因ではありません。さらに言えば、かれは頂上付近で電波が通ることを知っていたのです。4時30分に会社にメールをいれているのが証拠です。風雨が強かったからという説もありますが風雨はおさまってきています。かれは携帯を出して連絡しようともしていない。なお38歳ガイドに救援を依頼したというのもよくわからない。頂上でできるのになぜ下に行くのか。だれもそんな話は聞いていません。あれは38歳ガイドの行為が理解できずマスコミが作った仮説でしかない。かれは偶然によって110番に関与したが、自分の携帯で詳しく連絡を取ろうともしていない。さらに前トム平あたりでためそうともしていない。これが自分の仮説です。

20. 32歳ガイドが『トムラウシ分岐』で10名を確認してほしいと38歳ガイドに伝えたとのことですが

それは南沼キャンプ場の分岐のことですか。

トムラウシ分岐のことならそうですが、そこから70m下というところです。

とりあえず以上です

7月16日にトムラウシを目指していた他のパーティの動向についてのコメント

silvaplauna様

下記のNHK解説委員室ブログによれば、
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/23738.html

(1)なぜ出発したのか。

当日の朝、悪天候のなか、ガイドたちは予定より30分遅れて出発することを決断しました。この時点での天気予報は、「曇り、昼過ぎから晴れ」で、参加者は、ガイドが「午後からは晴れる」と説明したと話しています。しかし同じ日にトムラウシ山を目指し、ほかの避難小屋にいたパーティーのガイドは、同じ天気予報を聞いていましたが、天候の状況から登山を断念し、下山していました
との記述があります。小屋にいた他の人たちはどうしたのか気になっていましたが、やはり天人峡かクチャンベツにエスケープしていた模様ですね。

とりいそぎご一報まで。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/26/escape/#comment-306より

silvaplauna様

すみません、さきほどの記事、読み間違いがありました。「同じ日にトムラウシをめざし」「ほかの避難小屋」とありますので、はっきりとは断定できませんが、別パーティの判断地は忠別岳の避難小屋の可能性が高いですね。そうすると、五色岳〜沼の原経由〜クチャンベツになりましょうか。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/26/escape/#comment-307より

携帯電話の通話エリアに関するコメント

トムラウシ周辺の携帯電話の通信環境について、一言コメントさせてください。

私も北海道を離れてだいぶたちますので、せいぜい5年ほど前の情報ですが、以下のような認識でした。

条件:ドコモムーバ使用

ヒサゴ沼〜北沼→圏外
トムラウシ山頂(ほんとの山頂部で)→天候によりアンテナが立つことが有
南沼〜前トム平→所によりまれにアンテナが立つこと有
前トム平〜カムイ天上手前まで→圏外
カムイ天上の下り→アンテナ3本確実

短縮登山口などの車両手配等の電話が可能になるのは、カムイ天上を下り始めたあたりであることが多かったのではないでしょうか。

もちろん、5年もたっており、今ではフォーマの通話エリアも拡大しているはずです。

しかし、五年前は、遭難場所周辺は圏外との認識でした。多田くんが北沼よりの斜面で、携帯の連絡を入れていること自体が驚きで、ずいぶん通信環境がよくなったのだなぁと驚いています。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/31/mr-toda-text/#comment-355より

Bacchus auf Daikanberg様
10年前は皆さん当たり前のように無線機を携帯していたように思うのですが、最近はどうも携帯電話に依存する人が多くなっているようですね。無線機に限らず、事故ツアーの共同装備の不備はこれからもっと証拠がでて明らかになれば、リストアップして再検証するのがよいと思いますが、、silvaplauna さん いかがでしょう?
http://subeight.wordpress.com/2009/07/31/mr-toda-text/#comment-363より

ツアー会社の責任についてのコメント

もっとも私は単に計画というより、ツアー企画そのものの姿勢、理念に相当問題あったのではないか、つまり金儲けばかりが先行していたのではないか、と想像しています。おこるべくして起こったのかもしれません。このへんは身近にいたヒトがツアーの実態を明らかにしてくれることを望みます。http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-299より

との五郎右衛門さんの意見をうけての回答

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五郎右衛門様

会社の方針として、金儲けばかりが先行していたとの想像は的を射ていると思いますよ。

実際、同社の他のツアー計画では、私が10年前に知っているアミューズトラベルの計画ではありえなかったような、日程を1日短縮した驚くべき強行軍のプランが平然とまかり通るようになっていますね。そんな強行軍のツアーが最近登場したらしいと言う話はこの事故後に関係者の話ではじめて聞いたのですが、愕然としました。利益優先が見えみえで、吐き気がします。

いつだか、札幌事務所が立ち上がるころに、松下さん(当時専務だったと記憶していますが)安全には従前と同じように気を配るようにと忠告したことがありましたが、どうやら外道に落ちてしまったようです。

ただ、このテーマはまた、これはこれ。別途別の場所でとりあげてもよいのかなと思うんですね。
私としては、このサイトの趣旨に鑑みて、なるべく議論がぶれないように意見を述べさせていただいているところです。
http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/#comment-300より