大雪山遭難事故当日の事実経過について(アミューズトラベルの認識)

あの日からもう三週間もたつのですね。
私の心はいまだにあの岩だらけの登山道をさまよっているかのようです。

さて、最近までずいぶんお世話になった事故の考察サイトの北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。 今回の事故について戸田新介様のご意見 と 幾つかのご回答 | 甲 武 相 山 の 旅
に、8月7日付のアミューズトラベル発信のFAXが添付されています。これは恐らく生還者の戸田さんに送付されたものを上記ウェブサイトにリークしたもののようです。
全文スキャンデータはこちら(ただしこれでオリジナルの全文なのかどうかは不明。文章が尻切れトンボな印象。)。
http://subeight.files.wordpress.com/2009/07/tomuraushi0716.jpg?w=600&h=1283

ここには、生存者およびガイドに聞き取りした公式見解としての事故経過が記されています。
恐らくツアー参加者および遺族向けに流したものでしょう。

この文書から読み取れるのは、松本さんの目撃談および主観、斐品さんが目撃した内容、そして多田ガイド(あるいは野首さんの目撃内容とも照らしたかもわかりません)です。またこれまでほとんど報道されることのなかったビバークした人たちの様子が記されています。

この文書は、会社関係者が上記の証言者からの聞き書きを再構成した体裁のようにみえます。しかしながら、これらの認識がどの証言により構成されているかのアナウンスがありませんので、これも推測でしかありません。ただし、戸田さんの証言(幾多の報道およびSub Eight証言)が反映されていないことは確かのようです。
この文書は戸田証言との一部事実の認識の違いを際立たせている箇所があります(とくに時間に関して)。
これもまた、事実経過に対するひとつの史観として参考に値する文書といえます。
ちょっと長いのですが転載したうえで、コメントしようと思います。

率直に言って、戸田証言では北沼で1時間半も待たされていたことになっていたので、その空白部分の解明が今後の課題だったのですが、この文書でいろいろな謎が少し氷解してきました。
しかしながら、同時に事故を起こした会社が発表する事実認識として、FAX三枚弱のこの内容は、報道で明らかになった事実(特に全体的として時刻の記述および松本ガイドの行動)についてさえも記述が乏しく、あまりにも不十分です。また今回のFAX送付にあたり、戸田証言はどうして採用されなかったのか、そのあたりも釈明が必要ではないでしょうか。
参考:生還者戸田新介さんとの一問一答

トムラウシ山の遭難事故の経過について

◎本件事故のご報告(本年8月7日時点における弊社の認識内容)

1.事故の概要

平成21年7月16日(木)弊社アミューズトラベル主催の登山ツアー「旭岳からトムラウシ山縦走」が開始された4日目、ツアー客15名と弊社ガイド3名の全員がヒサゴ沼避難小屋を出発し、北沼分岐を渡渉の後、前トム平に至る間に激しい風雨にさらされ、低体温症のためガイド1名、ご参加者7名が凍死する大量遭難となってしった事故です。最愛のご家族を亡くされたご遺族の皆様並びにご参加者の皆様に改めて心からお詫び申し上げる次第です。

2.事故発生までの行動
7月13日(月)各地ー千歳ー旭岳温泉

13時30分頃、新千歳空港でお客様と弊社ガイドが合流し出発、バスの中でガイドの多田は「アウトドア用品店アルペンにてガスを買うのでお客様も何か買うものがあれば」とご案内。バスの中での説明は多田からは行程の説明、同じくガイドの吉川より東大雪荘に郵送する荷物のご案内をする。途中、コンビニに立ち寄り行動食の買い出しをご案内。旭岳温泉白樺荘に17時前に到着。夕食時、吉川より翌日の行程につきご案内をする。食事後、部屋にてガイド3名に加えてポーター役のペンバの4名にて共同装備の仕分けをする。松本は4人用テント2張と銀マット7枚、ペンバは10人用テント1張、多田は大鍋とガスヘッド2個とガス、吉川は小鍋とした。テレビの天気予報では翌日の天候は良いが、15,16日は崩れるとの予報。

7月14日(火)旭岳温泉ー旭岳ー白雲岳避難小屋

午前5時50分に予定通り宿を出発し、旭岳ロープウェイにて姿見駅に到着。降雨は無いが風が強くガスがかかる。体操をして出発、旭岳山頂近くになり、ガスが晴れ、風も弱まった。白雲岳登頂後、白雲岳避難小屋へ、ガイドたちはお湯を沸かして各自夕食を済ませてもらう。多田は携帯の天気サイトで上川地方の天気図を確認、翌日午後に寒冷前線が通過し、雷の心配があるので出発時間を30分早めるようにと提言。

7月15日(水)白雲岳避難小屋ーヒサゴ沼避難小屋

5時過ぎに出発。風はないが朝から雨。登山道には泥や水溜りが多く、水を選んで歩くので時間がかかる。歩くペースは遅いが、休憩時間を短めにしたので15時前頃にはヒサゴ沼避難小屋に到着。小屋は当ツアー関係者19名と他に6名の登山パーティとご夫婦1組が宿泊。ガイドがお湯を沸かし各自で夕食を済ませてもらう。翌日の天気について前日の天気予報から、多田は午前中までは崩れるが午後からは大丈夫と予想。

3.事故当日の行動について
7月16日(木)ヒサゴ沼避難小屋ー北沼分岐ー前トム平

雪渓上で風に曝されることを避けるため出発を30分遅らせ、午前5時30分に出発。雪渓があるのでアイゼンを装着。ペンバとは雪渓上部で別れ、岩場を通過し稜線に出る。風は強かったが登山道は昨日程水浸しではない。天沼手前と天沼付近で休憩。さらに日本庭園付近で休憩していると同じ山小屋にいた6人パーティが追い抜いて行く。
ロックガーデンに出ると物凄い風となった(松本談)。この頃からお客様の歩行状態にばらつきがでる。北沼分岐手前において北沼からの流水が氾濫して幅2mほどの川になる。膝下くらいの流れの中で多田と松本がお客様をサポートして対岸に渡す。松本はお客様がふらついた拍子に転倒し全身を濡らす。渡渉後に川角様がぐったりした様子だったので松本が介抱する。暖かい紅茶を飲ませたが、目を閉じたので大きな声をかけて励ます。ここでお客様の中から、「これは遭難だから早く救助を要請してくれ」などとガイドに対する申し出があった。渡渉と川角様の介護で他のメンバーも時間にして30分は行動を停滞させた。多田は、川角様と吉川、松本を残して本隊と歩き始めたが、雪渓手前で人数を確認すると2名足りなくて最後尾は松本だった。松本に、少し先に風をしのげる場所があるので本隊はそこで待つように指示して、多田は北沼分岐に戻ると植原様と石原様が残っていた。一人ずつ交互に背負って何度かピストンして雪渓を登りきると、市川様と市川様を介護している野首様がいた。多田は、雪渓上部の2,3分先で待っていた本隊に追いつき、行動不能の人はビバークし、松本は動けるお客様10人を連れて下山するよう指示する。又、同所の少し先にトムラウシ分岐があるので下山方向を間違わないように、同分岐で10人を連れて下山するようにとも指示した。松本は歩き出し、ゆっくりとしたペースでトムラウシ分岐に15〜20分程度で到着したが、点呼したら8名しかいなかった。当時の松本は前述の転倒で極限状態にあり2名を探しに行く精神力も体力も残されていなかった。松本は8名のお客様にこの道標に向かって下山してくださいと伝えて、救助の電話をする一心だけで歩き始めた。前トム平を少し下った所で前田様が電波が通じると言ったので110番してくださいと頼んだ。警察には4名以上自力で下山できないので救助を要請します(15時54分)と話したが、後はよく覚えていない。電話がすみ、先に下山するように伝える。意識が戻ったのは病院だった。

トムラウシ分岐の少し手前で後れた2人は木村様と斐品様で、松本が先頭で歩き始めてトムラウシ分岐手前5分の所で木村様がふらつき、斐品様は木村様を介護したが木村様は意識をなくした。斐品様が、下山を続けるとさらに動けない状態の味田様と竹内様を見つける。2人を必死に介護するがその甲斐なく意識をなくされたのでその場を離れる(13時40分)。斐品様がさらに下山すると真鍋様とシュラフに包まれた岡様と出会う。真鍋様は元気な様子だったが、この場所を離れたくないと話され、無理強いはせずに下山を続ける。

一方、多田は歩けないお客様の所へ戻り、唯一行動に支障のない野首様に手伝ってもらいツエルトの中に動けない3人を入れて体をさすり保温に努めた。多田はさらに救助要請のために携帯の電波が届く場所を探し南沼キャンプ地方面へ歩く。16時49分にメールを送信する。その先少し歩くと木村様が一人うずくまっていた。その先に青いビニールシートの塊があり、中にテント、毛布、ガスコンロを見つける。木村様に毛布をかけ、ビバーク地点へ戻る。野首様に手伝っていただきテントを立てお湯を沸かす。しかし、植原様の意識がなくなる。市川様には体温が伝わるように抱きかかえた。飲料水が少なくなったので南沼方面に再度行き、携帯で電話して19時10分に本社松下と警察と話す。テントに戻ると市川様の意識はなかった。

アミューズ見解についてのコメント

これまでの報道と戸田さんや前田さんを中心とした生還者の証言から強く推認していた事実の一部が崩れました。別段、驚くべきことではありません。

5点ほどあります。

まず第一に、最初の故障者

最初の故障者は、戸田新証言から、初日から体調を崩していた植原さんと推認していましたがこれは誤りで川角さんのようです。したがって第二ビバーク地に滞在していたのは、多田ガイド、野首さん、石原さん、植原さん、市川さんということのようです。また、ビバーク決定時に、テントを張ったという事実はありませんでした。少なくとも3人をどうにか収容できるツエルトの設営だったようです。
そもそも初期報道では、

ガイド3人が協議し、死亡した吉川寛さん(61)=広島県廿日市市=と多田学央さん(32)が、客5人とテントを張って残ることを決断。多田さんは松本仁さん(38)に「10人を下まで連れて行ってくれ」と頼んだ。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/090723/dst0907231350013-n2.htm

とありましたが、これは会社の説明によると、テントという報道は誤りということになります。
また、3名が協議したかどうか(どこで協議したのかを含めて)は会社側発表からはうかがい知れません。

第二ビバークに使用されたテント

第二点目として、第二ビバーク地点で張られたコールマンの大型テントはパーティが持参していたものと認識していましたが、南沼キャン地に残置してあった他人のものを拾ってきたことが明らかになりました。また、幕営時刻も、少なくとも16時49分のメール送信後であることがわかりました。
それまでは3名ないし4名でツエルトにくるまっていた可能性があります。
会社側文書によれば、野首さんはご自身の体調に異常がないにもかかわらず仲間のためにビバークし、多田ガイドの補佐に回る決断をしているように伺えます。
ツエルトのサイズがわかりません。しかし、初日仕分けした共同装備リストにない装備です。多田ガイドが個人装備としてもっていたとすれば、五人収容できるものであったかどうかは疑問が残ります。

第二ビバークに使用されたツエルト

第三点目として、この文書からは第一ビバーク組にあてがわれたツエルト等の記載がありません。
それどころか、川角さんが倒れて吉川さんが居残ることになった時点でぷっつり情報が途絶えています。これまでは、野首さん所有のツエルトを第一ビバーク組に貸与したと推認していましたが、この事実について、会社の認識が不明となりました。この点をもう少し解明する必要があります。

遭難時刻

第四に、出発時刻について。
斐品さんは、13時40分に味田さんと竹内さんを発見したとされています。味田さんと竹内さんの遭難地点は前トム平とされていますので、これは戸田証言の出発時刻13時30分頃とは大きく食い違う事実です。戸田さんは時刻についてはたびたび修正し自信のない発言をしていますので、さしあたり両者の証言を合成した推理をしてみます。

また、戸田さんが「遭難と認めて救助を要請してくれ」と申し出た時点から30分の停滞とありますので、会社側としては、北沼渡渉した30分後に16名が出発したという認識になります。
すなわち第一ビバーク地からの出発時刻は、戸田証言の11時北沼横断とすると、11時30分となります。
戸田証言にある1時間半の空白は次のように解釈できそうです。
11時半に出発直後、2名が脱落したので、また隊列をとめた。多田ガイドは2名を背負って雪渓(登り)
を往復した。雪渓の対処が終わると市川さんが脱落していた。ここで多田ガイドは、第二ビバークの決断をし、10名を下山させる指示を松本ガイドに出します。戸田証言でいう待たされた時間というのは、多田ガイドが2名を背負って雪渓を登っていた時間だったのです。
松本ガイドに下山の指示を出した時刻は残念ながら不明のままです(大変残念ながら)。しかし、斐品さんのご記憶によれば13時40分には前トム平付近に到着していることになり、味田さん竹内さんがトムラウシ分岐を出発した時刻は、少なくとも1時間以上はさかのぼって12時20〜30分前後ごろとみるべきでしょう。つまり多田ガイドが石原さんと植原さんを背負って風の弱いところまで運ぶのに要した時間は約1時間と推定されます。そうすると、前述の30分とあわせて合計90分。戸田さんの1時間半待たされたという記憶と合致してきます。(ただ、この雪渓対処の時間は、もう少し少なめに見積もってもいいかもしれません)

(追記:遭難時刻については、斐品さん前トム平着が早すぎる印象。なので再検討します。8月11日)

天気判断の根拠

最後に、天候判断について。
当初、私は何の根拠もなく、当日の朝の天候も悪く、念のためラジオ発表を聞くために、30分間、出発の時間を遅らせたのではないかと勝手に想像していましたが、30分出発時刻をずらしたのは、雪渓での強風を心配したためでした。会社側発表によれば、前日の夕刻の予報をもとに16日の天候を判断した疑いがあります。これは多田くんが正直に証言したものと思われます。

そのほか浮かび上がってきた事実

雪渓の存在

北沼渡渉後に雪渓が出てくるとは。。たぶんほんのわずかの解け残りでしょう。

最終日の共同装備の大半を小屋に残置した疑いがあること

遭難パーティのうち少なくとも多田ガイドと吉川ガイドは、事故当日、コンロもテントも持っていなかった疑いがあります。残るは松本ガイドだが可能性は低いだろう。

どこでどの時点で誰がどのように行動できなくなったのか
・最初の故障者:川角さん(吉川ガイドとツエルトビバーク

故障者目撃時の様子:渡渉後ぐったりする。お茶を飲ますも目を閉じる。
推定遭難場所1:北沼の渡渉後すぐの地点(北沼分岐手前)
推定遭難時刻:11時ごろ(ソース:戸田証言19加味)
推定ビバーク地:遭難場所1付近
推定原因:激しい風雨の連続行動(5時間30分)+膝下の渡渉

・2、3人目の故障者:植原さんと石原さん(多田ガイド+野首さんとビバーク

故障者目撃時の様子:自力の行動不能
推定遭難場所2:上記遭難場所1付近
推定遭難時刻:11時30分ごろ(ソース:会社発表+戸田証言19加味)
推定ビバーク地:北沼分岐の少し先(遭難場所1より雪渓を越えて先に進んだ地点 12時20〜30分頃ビバーク開始)
推定原因:激しい風雨の連続行動(5時間30分)+膝下の渡渉+30分間の待機による体力消耗

・4人目の故障者:市川さん(多田ガイド+野首さんとビバーク

故障者目撃時の様子:行動不能(野首さんが付き添う)
推定遭難場所3:北沼分岐の少し先(雪渓を登りきった地点)
推定遭難時刻:12時20〜30分ごろ(ソース:斐品さんの行動から逆算してスワン推定)要再検討
推定ビバーク地:北沼分岐の少し先
推定原因:激しい風雨の連続行動(5時間30分)+膝下の渡渉+30分間の待機による体力消耗+1時間の現場待機による体力消耗

・5人目の故障者:木村さん(17時ごろより単独毛布ビバーク

故障者目撃時の様子:歩行中にふらつく。斐品さんが介護するが意識を失う(12時50分ごろ)。16時50分過ぎにうずくまっているところを多田ガイドにより再発見され、毛布をかけられる。
推定遭難場所4:トムラウシ分岐まで約5分ほど手前の地点(南沼付近)
推定遭難時刻:12時30〜50分ごろ(ソース:斐品さんの行動から逆算してスワン推定)要再検討
推定原因:激しい風雨の連続行動(5時間30分)+膝下の渡渉+30分間の待機による体力消耗+1時間の現場待機による体力消耗+疲労α

・6、7人目の故障者:味田さん、竹内さん(ビバーク状態不明)

故障者目撃時の様子:斐品山発見時は動けない状態。斐品さんが介護するも13時40分ごろまでに意識を失う。時間的に少し前に長田さんと戸田さんが雪渓のサポートした形跡あり(サンケイ報道)。
推定遭難場所5:前トム平手前か前トム平付近(正確な場所は不明)
推定遭難時刻:13時40分より前(戸田さん、長田さん通過時)要再検討

・8人目の故障者:岡さん(真鍋さんに付き添われシュラフビバーク

故障者目撃時の様子:真鍋さんに付き添われシュラフに包まっている(斐品さん証言)。サンケイ報道によれば長田さん戸田さん通過時点では「介抱していた」と表現されており、まだシュラフは登場していない模様。
推定遭難場所6:前トム平付近(正確な場所は不明)
推定遭難時刻:13時40分より後(ソース:会社発表)要再検討
推定原因:激しい風雨の連続行動(5時間30分)+膝下の渡渉+30分間の待機による体力消耗+1時間の現場待機による体力消耗+疲労α

・9人目の故障者:松本ガイド(ハイマツの陰でビバーク

故障者目撃時の様子:風を避けるようにハイマツの陰で動けない状態。
推定遭難場所7:コマドリ沢下部(ソース:あまたの報道)
推定遭難時刻:16時ごろ(前田さんの下山を見届けた時点を遭難時とすれば。)
推定原因:北沼渡渉の際の濡れ+連続行動による疲労

不明だった松本ガイドと多田ガイドの行動の一部

会社発表によれば、第一の故障者が発生した時点での2人の行動は次のように記されています。

多田は、川角様と吉川、松本を残して本隊と歩き始めたが、雪渓手前で人数を確認すると2名足りなくて最後尾は松本だった。松本に、少し先に風をしのげる場所があるので本隊はそこで待つように指示して、多田は北沼分岐に戻ると植原様と石原様が残っていた。一人ずつ交互に背負って何度かピストンして雪渓を登りきる・・・後略・・・

北沼のほとりで、1人目の故障者の付き添いのため、吉川ガイドとともに3人で居残るはずだったのに、多田ガイドが出発すると、松本ガイドがなぜか最後尾についてきています。そのうえ、2人の客を置いてきてしまっている、と読むことができます。最後尾の松本ガイドが確認に戻らず、多田ガイドが確認のため戻ります。取り残された植原さんと石原さんを背負ったのは、雪渓を上りあがる行動技術を失っていると多田ガイドが判断したからでしょう。しかし背負ったのは松本ガイドではなく多田ガイドでした。多田ガイドが雪渓を往復し、故障者を隊列に戻します。
他方、松本ガイドは雪渓をあがったところで客と待機しています。と、こんな経緯が伺えます。
これを素直によむかぎり、松本ガイドは思考が止まっているかのようです。多田ガイドは松本ガイドがやるべき仕事を全部やっていた、そんな感じにみえます。

第二に、多田ガイドがトムラウシ分岐で10名確認してほしいと指示したあと、8名しか確認していないのに再出発したことが伺えます。松本ガイドは救助連絡のためと説明しています。
上記の会社FAXでは、松本ガイドは全身ずぶ濡れで極限状態にあったと記されています。
それを裏付けるような迷走ぶりを感じませんか。

野首さんと真鍋さんの行動

戸田さんの証言によれば野首さんも体調の不良を訴えていた、とありますが、多田ガイドとテントを張るのを手伝うなどしています。会社発表の文書を読むと、体調はよかったが故障者の救援活動のために自発的に居残ったようにみえます。
また真鍋さんについても、恐らく最後まで一緒に歩いていた岡さんや、もしかしたらあとから歩いてくるかもしれない味田さん竹内さんの安否を心配して前トム平付近でビバークを決意したようにみえます。あまり主観的な表現は慎むべきかもしれませんが、正直なところ、胸をうたれます。

出発時の共同装備と遭難時の装備
・出発時

松本は4人用テント2張と銀マット7枚、ペンバは10人用テント1張、多田は大鍋とガスヘッド2個とガス、吉川は小鍋

通信機の類は見当たりません。

ビバーク時(遭難時)

ツエルト1、ガス缶の残り、鍋はもっていたものと思われます。
肝心のテントですが、もし16日も持参していたとすれば、誰がもっていたか、なぜ使用しなかったかがの疑問に答えることが難しく、小屋においてきたと強く推認されます。
のちに、コールマンテントとガスコンロが南沼で調達されます。

通信環境

少なくとも16時49分時点、19時10分時点で南沼付近(トムラウシ分岐付近)で携帯通話・メールともに通信可能な様子が伺えます。松本ガイドが通過時点ではどうであったかは不明。多田ガイドが連絡を取った場所は、午後にも松本ガイドが8名を確認した場所とほぼ同一の場所です。松本ガイドはそのとき圏外と確認したのでしょうか。さしあたり圏外であったと推認しておきますが、全身ずぶ濡れ状態で極限状態にあったとされる松本ガイドが通信環境の確認を怠った可能性も強く疑われます。(もちろん、全身を濡らしたとの記述自体を疑う余地もありますが、戸田証言では’背中を濡らした’ですので背中が濡れるようなすっ転び方をすればたいてい全身ずぶ濡れでしょう。)

ヒサゴ沼避難小屋の宿泊者

小屋は当ツアー関係者19名と他に6名の登山パーティとご夫婦1組が宿泊。

ここには、南沼付近で遭難した単独登山者竹内氏は含まれていない様子。
また夫婦1組の当日の行動も明らかではありません。
別ルートを下山したか停滞した可能性が高いのですが、もしこのウェブサイトをご覧になっていたら、情報をお寄せいただけると幸いです。

会社発表が語らなかった事実

吉川ガイドのビバーク体制とその経緯・判断
松本ガイドの下山行動記録
自力下山者の行動記録
事故当日の行動のタイムライン、場所
事故前日の小屋の様子
報道されている体調不良者の様子

アミューズトラベルへの苦言

事故報告(速報でよい)を体裁を整えてする時期では?